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世界の芸術と家庭 [11]

岸田 泰雅

娘への父の愛

本を読む少女、弘子像

本を読む少女、弘子像

自分の娘を描いた洋画の傑作がある。作者は松岡壽(まつおかひさし)(1862〜1944)、描かれたのは次女の弘子(後に嫁いで、西川弘子)で、昭和11年(1936年)の作である。切れ長の細い目をして、鼻筋が通っている。きりっと口を結び、手に持った本を読んでいるところである。純粋な心を持った女性、しっかりとした娘、そういう雰囲気がどこからともなく伝わってくる。華やかに振舞うことはないかもしれないが、心遣いが細やかで、背後で物事をしっかりと支えていく女性、日本的で平安的な王朝女性の高貴な美相を備えている女性、そのような空気がこの娘のまわりにはある。この松岡壽の画から、娘に対する父親の愛情といったものがひしひしと伝わってくる。

人物画、肖像画の多い松岡であるが、イタリアで長く学んだ経歴から、ミケランジェロなどの壮大な壁画の影響もあって、天地創造に似たスケールの大きい壁画も残している。大阪市中央公会堂特別室にある天井画を見た者は、驚きの声を発する。そこには、「日本神話における天地開闢(1917年)」が12メートル×11メートルの画幅に描かれており、まさにイザナギ・イザナミの国造りが始められた場面が描出されている。天から舞い降りてくるアダムとエバならぬイザナギとイザナミの両人が日本列島を作り出そうという場面である。このような作品を見ると、松岡壽の中には、イタリアルネッサンス的なスピリットが横溢(おういつ)していたことが分かる。

明治日本の洋画開拓の先駆

幕末に生を享(う)け、明治、大正、昭和と、その人生を駆け抜けた松岡壽は、祖父が津山藩(関西における蘭学発祥の地)で、父は岡山藩の洋学研究者であった。9歳のときには、藩の外国人教師について英語を学ぶなど、非常に開かれた家庭環境で育った。

1872年、明治政府に登用された父に従って上京し、10歳で画塾に入って、画才を大いに発揮した。14歳で、工部大学附属工部美術学校が開設されると、画学科に一期生として入学した。ここで、イタリア人教師フォンタネージから西洋の画法を学び、さらなる精進を求めて1880年から1887年まで8年間、イタリア留学を果たし、国立ローマ美術学校の人物専門科における一等賞を堂々獲得して卒業した。

松岡の面白いところは、岡倉天心などが日本の国粋美術を主張する論説に対して、激論を交わし、西洋美術から学ぶべきところも多いとする弁を通したことである。日本美術偏愛の風潮には頑として抵抗した。浅井忠ら同志と共に洋画壇を発展させた功績は大きい。画業のほかに、松岡壽は家訓に従って、別の生業を持った。日本政府の特許局審査官を務め、また、東京高等工芸学校(1921年創立)の初代校長の任を果たした。画業、公務員の二股がけの人生は、画業に陰りをきたすと言うかもしれないが、松岡壽は多忙をものともせず、二つをやりきった。器用な人生と言えば、器用である。

松岡壽の人柄と父思いの弘子

松岡壽の自画像(1942年、80歳)を見ると分かるが、見事な禿頭である。その自分を指して「禿は文明病で、そして正直者で善良な証拠だ」という口癖を吐いていた。天気がいいと油絵の具のノリがいい、反対に天気が悪いと絵の具の具合が悪い、そういうところから、天気がいいと上機嫌で、天気が悪いと機嫌があまりよくない松岡であったが、そんな父親のことを知り尽くした弘子は、出掛けに「今日は傘がいるかしら?」とわざわざ父に尋ねたというから、絵の具のノリの具合を見て天気のよしあしを推測できたようである。このように父親のことをすっかり理解していた弘子であり、この次女の弘子がおそらく可愛かったことであろう。

画業と公職(特許局審査官、教育職)の両面で忙しい松岡壽であったが、彼の人柄を物語るエピソードが面白い。松岡が農商務省の商品陳列館長をしていた時の部下が、親戚の洋画家の井上啓次を訪ね、「啓次さんは誰に絵を習ったのですか」と聞いた。すると「松岡壽先生だよ」と答えが返ってきた。その部下は「私の役所の長官と同姓同名ですね。まさか…」と訝(いぶか)るところを、井上啓次は「そのまさかだよ。松岡先生はイタリアで9年近くも修業を積んだ人物画の第一人者だぞ!」と答えた。部下は「それほどの大家でありながら、口にも顔にも出されたことがない。なんと立派なことか…」と、上司の松岡壽に改めて深い敬意を表したということである。松岡壽は自己宣伝などには縁のない謙遜実直な人柄であった。