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世界の芸術と家庭 [12]

岸田 泰雅

愛妻家で家族思いの画家

芸術家の家族

Nの家族

小出楢重(こいでならしげ)(1887−1931)という画家が自身の家族を描いている。「Nの家族」(1919年)と題する作品であるが、妻と子供、そして画家自身の3人の家族の肖像画である。この作品は友人の広津和郎(小説家、文芸評論家)の強い勧めで、初めて出展した二科展に新人として入賞を果たし、高山樗牛賞に輝いた。

2歳になろうとする小さな男の子の泰弘と妻の重子、そして楢重を改めてよく見ると、妻は幾分、不機嫌そうに見えるし、楢重はやせ細り、極端に面長な顔をして、タバコを咥(くわ)えているが、生気を感じさせない。妻も画家もあまり幸せそうに見えないのは、当時、文展(文部省展覧会)に楢重は4年連続落選しており、その文展ショックがかなり効いていたと見え、気持ちが塞いでいた。妻は夫を信じ、支えていたと思われるが、夫の落ち込みを見て、妻も気持ちが沈んでいたようである。こういう辛い時期を経験しながらも、後には「東の劉生、西の楢重」と言われるほどに名声を博し、近代画家たちに大きな影響を残した。

小出楢重は大阪に生まれ、実家は膏薬の製造販売をしており、不自由なく暮らして成長した。楢重は実家の跡を継がず、東京へ出て、東京美術学校西洋画科に入る。しかし、黒田清輝らの教えにも納得がいかず、卒業とともに、大阪へ戻り、アトリエを借りて、制作に没頭する。野田重子と結婚し、子供にも恵まれ、文展を目指したが、文展突破はついに成らなかった。そういうときの作品が「Nの家族」である。

「Nの家族」で自信を深めた楢重は、33歳の時、洋行を決意、フランスへ向かった。しかし、半年で日本へ引き返し、日本独自の油絵が必要であると考え、その後、1931年の臨終まで、多くの裸婦画を描き、43歳の画家人生を終えた。

冷静に対象を観察する視点

楢重が、東京美術学校の在学時に、洋画壇の巨匠、黒田清輝の教えにも納得がいかなかったエピソードの一つとして、清輝が影は黒ではなく濃い紫なのだと教えたことに対して、どうして黒ではいけないのかと反発の感情を隠せなかった。大阪人らしい反骨精神が噴出したのであろう。東京で岸田劉生が人気を博していたのを意識してか、大阪には小出楢重がいるぞという気概を表した証拠が、実は、「Nの家族」に謎めいた部分を描くことで示されていると、美術愛好家たちは大いに詮索をめぐらした。

「Nの家族」をよく見ると、楢重の前に、1冊の本が描かれている。本の表紙には「ホルバイン」のアルファベット文字が認められる。これが、岸田劉生に対する挑戦であると言う。なぜか。劉生はデューラーに傾倒していたが、デューラーに対峙するもう1人の人物がホルバインだったのである。ルネッサンス期を飾る巨匠のデューラー、それに対抗するホルバイン、この構図を楢重は自らに当て嵌(は)め、東のデューラー岸田劉生に、西のホルバイン小出楢重を対決させる構図を示した。何でもない家族の肖像を描いているようであるが、楢重はしたたかな挑戦状を突きつけていた。

裸体画を数多く残した楢重であったが、それらの作品に見られる特徴も、裸体そのものへの冷徹な観察眼であったと言われる。劉生が主情主義的に情感をたっぷりと注入する傾向を示したのに対して、楢重は情感を入れず、どこまでも冷静沈着な観察眼で作品を描いた。

ヨーロッパから家族へ手紙

「小出楢重随筆集」というのが岩波文庫から出ているが、ヨーロッパに渡った時の、日々の生活や近辺の事柄を細々と妻の重子に書き送っている筆まめな楢重を見ると、とても愛妻家で、ベルリンでの買い物のこと、「きのう、重子のために。また時計を一つ買ったよ」とか、「うちはみな、たっしゃか、重子もたっしゃか、泰弘も。皆の健康を祈る」といった何でもない簡潔な文章の中に、妻や子に対する愛情をいつも心に抱きながら行動している楢重の姿が浮かび上がる。遠く離れていても、家族のことを片時も忘れず思い、その日にあった出来事を手紙に認(したた)める画家の姿は、ほほえましく、且つ、安らぎを感じさせてくれるものである。

小出楢重という画家は時代が下るにつれて、その評価を高め、作品への思いを熱くするファン層も多くなってきている。芦屋市立美術博物館の一角には小出楢重のアトリエが復元されており、小出の人柄を偲ぶ人々にとってはぜひとも訪ねたい場所である。