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世界の芸術と家庭 [16]

岸田 泰雅

平和の究極は家族と愛

独特の画風で旋風を巻き起こす

家族と画家夫婦

北川民次(たみじ)という画家がいる。1894年生まれで、1989年に世を去るまで活躍。95歳の大往生を遂げた見事な人生である。その画風は一風変わった味わいを持っており、ヨーロッパ一辺倒に傾いた西洋絵画に酔いしれてきた日本画壇においては、極めて異色である。と言うのは、彼の絵画の原点はメキシコであり、中南米のラテンの土着の香りが芬々(ふんぷん)と漂っているからだ。

「家族と画家夫婦」と題する北川民次の作品を見ると、画家自身と妻、そして子供2人の食事風景を描いていると思われるその画風は、欧州の絵画とは一線を画し異彩を放っている。その背景には、北川民次の人生航路がメキシコの大地を踏んだことと大いに関係している。「家族と画家夫婦」が描かれたのは、1945年の12月で、第2次世界大戦の終了間もないときである。やっと戦争が終わり、平和のひと時を家族揃って食卓に着き、寛(くつろ)いでいる情景である。食事の時間と言うよりも、飲み物を持って家族の談話が進んでいる休息の時のようであり、子供たちの前に置かれているのも果物のたぐいである。テーブルの中央には一本ざしの花瓶が置いてある。灰色味を帯びて赤茶けた色彩で仕上げた画は、日本でもなく、ヨーロッパでもなく、その原風景をやはりメキシコに求めなければならないと言えよう。

北川民次の画風を決定づけたメキシコ

北川民次は静岡県の生まれであり、早稲田大学を中退し、1914年(大正3年)20歳の時、アメリカに渡った。ニューヨークで劇場の舞台背景を制作する職人として働く傍ら、アート・スチューデンツ・リーグで絵画の基礎を学んで、そこを1921年に卒業。1923年にはアメリカ南部諸州を放浪して、キューバに行き、そこからメキシコへと渡った。

1920年代のメキシコと言えば、「メキシコ革命」に合わせて、「メキシコ壁画運動」が展開された時期でもあった。当時、インディオやその混血であるメスティーソなどの農民は一部の支配層だけを潤すメキシコ近代化の矛盾を打破すべく、革命への共感を募らせていたが、その啓蒙の手段として活用されたのが壁画であった。壁画運動を中心的に支えたのが、ディエゴ・リベラ、ダビッド・A・シケイロス、ホセ・C・オロスコなどであったが、3人が学んだサン・カルロス美術学校に北川民次も通った。そして、リベラ、シケイロス、オロスコなどとも親交を持った。こうして、20代から30代にかけて多感な青年期をメキシコで過ごし、インディオやメスティーソの血を感じさせるメキシコ土着芸術の影響を受けた北川民次は、生涯にわたり、メキシコの伝統と土着の香りを自らの作品に反映させていく。

たとえば、1930年作の「トラルバム霊園のお祭り」(名古屋市美術館蔵)、1931年作の「ランチェロの唄」(国立近代美術館蔵)などを見ると、日本人画家の作品とは思えないほど、メキシコの異国情緒で彩られている。1931年には、タスコの野外美術学校校長を務め、子供たちを教えた。子供たちを愛し、美術を教えるという仕事をこよなく愛した北川民次の原点もまた、タスコ美術学校の経験が大きく影響していたであろうことは想像に難くない。メキシコ壁画運動の影響を受けた画家は日本では稀であり、あえて挙げれば、岡本太郎のパブリック・アートぐらいであろう。

瀬戸を愛し児童を愛した北川民次

北川民次は、1936年、メキシコから日本へ帰国した。日本では、愛知県の瀬戸が彼のアトリエとなった場所であり、瀬戸の地を愛し、子供たちを教え、1989年の大往生まで、こよなく瀬戸と子供たちを愛しながら美術活動に打ち込んだ。民衆に寄り添った北川民次の生き方は、やはり、メキシコ体験の影響が大きいと言えるだろう。革命時代の1920年代のメキシコとその時の青年期の北川民次が共鳴関係にあったとすれば、その後の北川民次の平和、戦争、社会問題といったことに向けられた意識はすべてメキシコが与えてくれた原意識と言えるかもしれない。それだけではなく、平和の向こうに家族を見て、愛を見た北川民次の美術作品の傾向が物語るものは、平和の究極は家族と愛であるという命題を誰よりも深く認識していた証として捉えてよい。民衆に、庶民に、子供たちに寄り添いつつ、人間愛がもたらす平和を希求する態度こそ、北川民次の真骨頂と言えよう。東郷青児の後を継いで、二科会会長に推されるほどの人望を持ちながらも、その役職を固辞した北川民次という人物の生きざまの中に、一種の反骨精神を見るが、それもメキシコの庶民の苦しみを分かる北川民次らしい生き方であったと言わざるを得ない。