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世界の芸術と家庭 [17]

岸田 泰雅

宗教画の中に家庭的ぬくもり

ベツレヘムへの困難な道

困難な道

ドイツには、印象派の3大巨頭がいる。マックス・リーバーマン、ロヴィス・コリント、マックス・スレーフォークトの3人であるが、彼らに引けを取らない、フリッツ・フォン・ウーデというもう一人の印象派画家がいる。ウーデの描いた作品の中に、「ベツレヘムへの困難な道」(1890年作)と題する作品があり、比較的に若い夫婦と思われる二人が、歩きにくそうな田舎道を歩いている画である。寄り添って歩く二人の背中姿は、仲の良い夫婦を思わせるが、それほど豊かでもない夫婦のようであり、風景の印象からすれば、ドイツ国内をまだ出ているようにも思われず、遠い先にあるベツレヘムまでどれくらいあるかわからない困難な長旅を思わせる。

何を考えて、この夫婦はイエス・キリストの生誕地ベツレヘムへの巡礼の旅に出ようと思ったのか、ドイツと中東のベツレヘムでは、あまりにも遠い。子供ができないので子供が生まれるように、聖地ベツレヘムで神にお祈りを捧げて来ようというのだろうか。息子が難しい病気にかかっているので、お祈りして治していただこうというのか。それだったら、近くの教会でもいいではないかと思うが、この夫婦には、そうはいかないらしい。この画は夫婦の巡礼の旅の動機まで説明してはいないが、巡礼の旅を決意した夫婦には、よほどの事情があると見られる。そういうことをあれこれ考えながら、この作品を見ると、画面の夫婦に深く引き付けられ、抱える人生の困難な事情が、困難な巡礼の旅を思い立たせたのではないか…。画中の夫は妻に何か語り掛けているようだが、「大丈夫か。頑張って歩こう」と励ましているようにも見える。巡礼という宗教的テーマを若い夫婦にぶつけた背景には、苦労の絶えない庶民の人生への画家ウーデの温かい思いやりと同情が感じられる。

フリッツ・フォン・ウーデの人生

フリッツ・フォン・ウーデは、1848年、ドイツのザクセン州、ヴォルケンブルクの裕福な家庭に生まれた。父親に画の心得があり、また母方の祖父がドレスデンの王室美術館の責任者を務めていたこともあって、彼は相当な画才のDNAを持って生まれたと見られる。1866年、18歳の時、ドレスデンの美術学校に入るが、そこの教えに合わず、軍隊に入隊。そして、馬術教師になったのち、1868年、陸軍中尉に昇進した。1876年、彼はウィーンで画家のマカルトに会い、再び画家への道を志して、軍を去る。1877年、29歳の時、ミュンヘン美術学校に入り、この学校で学んでいるとき、17世紀のフランドル絵画、特に、レンブラントの絵画に大きな影響を受けたと言われる。フランドルとはオランダ南部、ベルギー西部そしてフランス北部にかけての地域を指すが、実際、1882年、34歳の時、オランダに渡って画業に専念することになる。その時期に、彼の明暗法の手法に変化が起き、その絵画は、明るい色彩を持つ筆致へと大きく移っていった。1890年には、ミュンヘン美術学校の教授となり、その後の人生においては、ドイツ美術界で、大きな役割を果たす人物の一人として活躍。1 911年、63歳の生涯を閉じた。

ドイツ的日常の中のイエス・キリスト

フリッツ・フォン・ウーデは多くの作品を残しているが、その中に、イエスが登場する宗教画が多いのには正直、驚かされる。と言うのも、彼と同じ印象主義や自然主義の絵画に取り組んだ19世紀から20世紀初頭の画家たちの中に、宗教画のモチーフやテーマを見つけ出すのはそれほど容易ではないからだ。その点、ウーデは宗教的精神性の高い人物であったと思われる。「ベツレヘムへの困難な道」が、実際には、ベツレヘムを目指していたかどうかはともかく、極めてドイツ的な情景、風景の中で描かれているものであるにせよ、聖書的テーマをすべてドイツ的光景の中で描写しているのが面白い。「子供らを我の許に来させよ」、「食前の祈り」、「最後の晩餐」、「エジプトへの逃避行」などの作品もすべて、中東のイスラエルを感じさせるものは何もなく、ドイツの情景の中に画題の内容は封じ込められている。そう思って「ベツレヘムへの困難な道」をもう一度見ると、画題が与えられていなければ、ドイツのどこかのぬかるんだ田舎道を若い夫婦らしき二人が歩いている、そういう絵にしか見えない。しかし、ドイツを舞台にしているが、ウーデの魂は、ドイツ的日常の中にイエスに繋がるテーマを大いに盛り込んだ画を描かざるを得なかった。彼の作品は、宗教画の中に家庭的な愛情のぬくもりを表現している。「ベツレヘムへの困難な道」も、寄り添って歩く夫婦の中に思いやり合う夫婦愛が感じられてならない。