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世界の芸術と家庭 [20]

岸田 泰雅

母の愛と教育が子供に表れる

肖像某氏の家族

肖像某氏の家族

日本画家であり、洋画家である石橋和訓(1876−1928、本名は倉三郎)の作品に、「肖像某氏の家族」がある。15年間も、イギリスで過ごした画家であるから、多くの作品が英国にあり、日本ではそれほど彼の作品を目にすることはない。その中で、「肖像某氏の家族」は戦前の絵葉書として出回ったので、目に触れる機会も多いのである。

某氏の家族は、明らかに、上流階級の家庭である。気品のある婦人の顔とおしゃれな帽子、エレガントな服装を見れば、その社会的ステータスは一目瞭然である。二人の息子と一人の娘も母親と一緒に画中に描かれており、そのきちんとした身なりは、庶民のものではない。母親の背丈に迫るほどに成長した娘が身に着ける純白の服は、そのまま純潔な乙女であることを表しているようであり、白い髪飾りも美しい。きりっと引き締まった娘の美しい表情は母親譲りであると共に、立派に躾けられ、教育を受けて育ってきたことを証明しているかのようである。

石橋和訓は、日本人として、初めて、ロンドンの王立美術院(ロイヤルアカデミー)に入った人物で、ここで、肖像画の技術を極め、肖像画家として大成した。そのため、石橋の作風は、英国官学派の堅実な描写が特徴としてあらわれるのは当然であるが、「肖像某氏の家族」はまさにその堅実な画風が遺憾なく発揮されていると言ってよい。少し、大げさに言えば、戦前の家柄のよい良家の家族像がどういうものであったかを物語る証拠作品を石橋は残してくれたのである。そう思ってこの絵をもう一度よく観ると、英国風の紳士淑女が、日本で築き上げた上流家庭のようにも見える。

日英関係の深かった時代を生き抜く

日露戦争が始まる2年前、日本と英国は軍事同盟を結んだ。いわゆる、日英同盟(1902−1923)である。ちょうど、この日英同盟の時代と重なるようにして、石橋和訓は、1903年から1918年まで英国で過ごしたのである。明治初期の画家たちが、フランスやイタリアなどの欧州大陸の方で学んだのとは対照的に、石橋は、ドーバー海峡を越え英国で学ぶという人生行路を進んだ。

王立美術院で石橋を指導したのが、ジョン・シンガー・サージェント(1856−1925)である。サージェントはアメリカ人で、非常に多くの作品を残している。実に、油絵900点、水彩画2000点というから、精力的な創作意欲を持った人物であった。この師の下で石橋は画技を磨き上げていったのである。

石橋の代表的な作品の中に詩を読む美人、「美人読詩」(1906年)というのがある。美しい英国女性が読書をしている画で、現在は、島根県立美術館に収蔵されている。この作品などは、サージェントの多くの作品と重なる雰囲気があり、師匠サージェントもさぞかし満足げに出来栄えを見てくれたのではないかと推測される。石橋和訓を語るとなれば、英国を、サージェントを語らないわけにはいかない。「肖像某氏の家族」を観るとき、欧州大陸の方にはない英国的美の感性で、石橋和訓は作品を描き上げたという印象が伝わってくるから不思議である。肖像画家としての石橋和訓は、多くの著名な日本人、英国人の肖像画を描いた。徳富蘇峰の立派な肖像画なども、石橋和訓によって描かれているが、蘇峰がどういう人物であったかが、肖像画を通してよく伝わってくる。

出雲が生んだ肖像画家

石橋和訓は、島根県の飯石郡、現在の出雲市に生まれた。家は農家で、幼少から画才を示した。17歳のとき、上京し、滝和亭塾にはいり、本格的に日本画の修行に入って、その後、広島の砲兵第五連隊に入隊するなどの後に、英国に渡った。

「肖像某氏の家族」が人を引き付ける何らかの引力を持ち合わせているように思われるのは、この描かれた家族の健康さ、上品さ、優美さ、そういった魅力が放出されているからではないだろうか。石橋が英国で見た上流社会の家族と同じ高貴な香りを放つ家族が日本にもあった。まさに、そういう感懐を抱かざるを得ないような家族を、真心を込めて描いたのである。それが「肖像某氏の家族」である。

それにしても、なぜか気になり、思わず、目を止めてしまうのが、中央の婦人である。その微笑みが清らかな品性と優美な温かさを豊かに表しているからである。二人の男の子供も優しい表情をしている。いろいろな家族があるだろうが、「肖像某氏の家族」に描かれた家族は、母親の愛と教育が子供たちにしっかりとよく行き渡っている上質の家族であろうことは間違いないと言えるだろう。