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春夏秋冬つれづれノート

ジャーナリスト 堀本和博

忍び寄る老いを感じる中で分かってくる、他愛無い会話のゆるゆるとした日々の貴重なこと

何歳のときのことかは知らないが、万葉の代表歌人のひとり山上憶良(やまのうえのおくら)の歌に、自らの老いを悲しむ歌がある。その一部は「……四支動かず百節みないたみ、身体はなはだ重く、なほ鈞石(きんせき)を負えるがごとし。……」

これを何と大げさな、とは思わなくなったこの頃である。明治の文豪・志賀直哉(しがなおや)は84歳のとき「ここがわるい、ここが痛むというのではなしに、衰えて——このごろしみじみ労苦というものを味わわされているんだ」と嘆いたという。

古希が近づいている身には老いが忍び寄ってくるのを感じる。血糖値をチェックしていること以外に、まだ特に体の問題を抱えているわけではないが、日常、簡単にできてきたことが難しくなってきたことが二つ、三つ出てきた。例えば、ズボンを立ったままサッとははけなくなったことなど。わたしより年上で70歳半ばに近づきつつある家内の方は、年齢に加えて20年近くパーキンソン病と付き合っているから、何かと家族でも分かってあげられない、もっと不自由なことがあると思う。それでも明るさを失わないで、いつも心が前向きなのには敬意を抱かせられる。

そんな老夫婦同士になると、これまではあまり気に留めなかったことも互いに注意を払うようになる。少し長風呂をしていると、そっと戸口にきて中を窺(うかが)う気配がしたり、「まだ入っているの、長いね」と声をかけてきたりする。わたしも家内が風呂のとき、戸口に近づき、中で湯をかける音を聞いて安心したりするのである。

遅い帰宅のときも、先に寝た家内は目を覚ますと必ず起きてきて少しの間、茶飲み話をするようになった。話はベランダの鉢植えの花、飼っているヤドカリや川えびのこと、娘の消息や孫のこと、よく言葉を交わす近所の人のことなど、およそ他愛(たわい)ないことばかり。時々、わずかでも、こういうゆるゆるとした、和(なご)んだひとときを持てることが貴重に思えてくる。と同時に、仕事だけにしゃかりきになり、あわただしかった青年から壮年にかけての、あの時は何だったのだろうか、と思うときがある。

そして、88歳で往生した家内の母親がよく「年寄りのことは年寄りになってみないと分からないものだよ」とつぶやいていたことを思い出すのである。

9月は15日の老人の日から1週間が老人週間で、今年は第3月曜日の19日が敬老の日である。

〈青葉見て、遊ぶ犬見てこれほどにうれしきは軽老化のゆゑか〉小島ゆかり