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世界の芸術と家庭 [21]

岸田 泰雅

「愛」を生涯のテーマに描く

ユダヤ人画家が描いた夫婦愛の物語

マルク・シャガール(1887ー1985)という名を聞けば、多くの幻想的な絵画を描いた画家として、思い起こす人が多いかもしれない。シャガールはユダヤ人である。音楽の世界においては、多くの作曲家、演奏家が活躍するユダヤ人の世界であるが、絵画となると、ユダヤ人は非常に少ない。旧約聖書の出エジプト記第20章4節に「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない」という偶像崇拝の禁止を命じた神の言葉が、おそらく、ユダヤ人たちが画家になる道を阻んだ大きな原因となったのであろう。そんな中で、シャガールは突出した存在として目に映る。

街の上で

それにしても、シャガールの寿命は長かった。97歳という長寿は、19世紀末から、20世紀をほぼカバーする長い人生を画業に打ち込んだ偉大な人生であったと言わざるを得ない。

その彼の初期の作品の中で有名になったのが『街の上で』(1914−18年、トレチャコフ美術館蔵)という作品である。眼下にシャガールの生まれ育ったヴィテブスクの街を見下ろしながら、恋人のカップルが空を飛んでいる。空中遊泳を楽しむカップルの二人はシャガール自身と妻のベラであると見られる。空を飛びたくなるほどに歓喜に満ちた愛の世界を、この二人は味わっているのだろうか。そうだとしたら、シャガールがベラを愛した愛の世界は、空中飛翔せざるを得ないような強烈な愛をベラに注いでいたと言えよう。実際、シャガールはベラを深く愛した。

こういう絵は幻想的で奇抜に見えるが、ほかの画家が決して描くことのできない愛の歓喜のシャガール流の表現であると考えれば、シャガールは秀抜な才能の持ち主である。シャガールとベラの夫婦愛は、歓喜に震え、空を飛ぶ勢いでしか表現できなかったのであろう。そのお空のさらに上空を突き抜けていけば、神が住まい給う天国である。

ロシア、仏、米国、そして再び仏へ

生涯を通してシャガールは、人生の様々な試練に遭遇し、その度に、国から国へと移住を余儀なくされた。そのパターンは多くのユダヤ人たちが経験したものと同様であったと言える。

ロシアを去ってフランス、パリのモンパルナスへ留学したのが10年のとき(23歳)であったが、14年には、故郷のヴィテブスク(白ロシア、現在はベラルーシ共和国)へ戻り、22年まで滞在する。ロシアへのその帰還中に、15年(28歳)、ベラ・ローゼンフェルトと結婚し、翌年、娘のイダが誕生した。17年、ロシア革命を遂行した共産主義ロシアは、ユダヤ教の信仰を持つシャガールにはイデオロギー的に全く合わなかった。

23年(36歳)、再び、フランスのパリへ渡った。26年のニューヨークでの個展、33年のバーゼル(スイス)での大回顧展など、世界的な名声を確立する中、37年、ドイツのナチス政権がユダヤ人迫害を強め、シャガールの作品を撤去するという暴挙に出て、ヨーロッパはシャガール家族にとって安住するところではなくなり、フランス国籍も剥奪されて、ついに、41年にアメリカへ亡命を果たした。

アメリカはシャガールに好意的であり、彼の作品も大いに人気を博し、39年には、カーネギー賞の受賞まで果たしていたのであるが、悲しいことに、最愛の妻ベラをウイルス性感染症で失うという出来事が44年(57歳)に起きてしまった。47年(60歳)、フランスへ戻り、50年、南仏のヴァンスへ転居して、85年、97歳で、ヴァンスの自宅においてあの世へと旅立った。

愛だけが私の興味を引くものである

20世紀において、「巨匠」の名に相応しい画家の一人がシャガールであると断言しても否定する人はいないであろう。シャガールに魅了される多くのファンもいる。彼は、一体、何をテーマに描いて「巨匠」の名で呼ばれるのか。シャガール自身の言葉にあるように、「愛」を生涯のテーマにして描き続けたのがシャガールである。「愛だけが私の興味を引くものだから、愛を取り巻くものとしか私はかかわりを持たない」ときっぱり言い放つほどに、シャガールは「愛の画家」であった。

「恋人たちと花束」「青い恋人たち」「赤いバラと恋人たち」「黄色と赤の花束」など、ほとんどの名作が、恋人(その多くはシャガールと妻の愛の世界と見てよい)たちの愛とそれを象徴する花束をペアにして描いた作品である。その愛の世界を描くときにも、「ただ神のみが手を貸して、私は自分の絵の前で、真実の涙を流すのだ」という境地に立ち、画筆を揮(ふる)っていたのだから、畏敬の念でシャガールの世界を見るしかないであろう。もっとも純粋な魂そのものをシャガールは自己の絵画の中に投入していたのである。