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ふるさとづくりのススメ 実践スローライフ〈6〉

ジャーナリスト 高嶋 久

長野から香川へ、ふるさと帰り

駒ヶ根の生活になじみ、ここで一生暮らしてもいいなと思い始めたころ、それを察したかのように、母が脳内出血で倒れてしまいました。当時、私は40代半ば、父は私が23の時に55歳で亡くなっており、私が大学に行くようになってから、母は独り暮らし。老人施設の寮母を辞めてからは、近くの手袋工場の下請けで、玄関に工業用ミシンを据え、縫製の仕事をしていました。その社員がわが家に来て倒れている母を見つけ、救急車を呼んでくれたので、一命をとりとめたのです。

私は3人兄弟で、姉と兄がいますが、母の子は私だけ。両親とも再婚でした。ですから、母は私が面倒みるしかないと思っていたので、すぐに引っ越しを決め、息子たちに話すと、すんなり承知してくれ、ほっとしました。

男の厄年の41歳で中学の同窓会をし、旧交を温めていた同級生が住宅会社をやっていたので、在宅介護ができるよう、家を改築してもらい、母は3カ月ほど入院して、姉の家へ。ところが、認知症が出てきて姉が持てあまし、いとこに頼んで自宅に連れて帰ってもらいました。

私は仕事をしている東京から、長野とは別に月に1〜2度、香川へ夜行バスで帰省し、母の世話をしていましたが、そのうち近所の人から、独りでの生活は危ないから何とかするように言われました。阪神・淡路大震災の年で、引っ越しは年度替わりの翌年3月末と決めていたので、それまでの2カ月は、近くの老健施設に入れてもらいました。そして、神戸にはまだブルーシートの屋根が目立つ中、引っ越ししてきたのです。

同級生に事情を話すと、男たちは「金が大変やね」と、女たちは「奥さんが大変やわ」という反応。後者はその通りで、以後、妻に頭が上がらなくなります。正確に言えば、以前からですが……。

施設に入所するには医師の診断書が必要で、母を病院に連れて行くと、医師の「あなたのお名前は?」との質問に、母が私の名前を繰り返し答えるのを外で聞いて、胸に迫るものがありました。

自治会には、家族で引っ越ししてきたことを報告すると、みんな人口が増えたと喜んでくれました。当時、地域では集団営農が始まっていたので、私も参加して、時間があると一緒に農作業をするようになりました。私が小さいころにあったような共同作業なので、懐かしく、そこで仲間と親しくなり、地域の情報を得るようになったことが、定着に役立ちました。以後、自治会活動にも積極的に参加するようになり、自分なりの役割を見いだしていったのがよかったと思います。