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愛の知恵袋 97

家庭問題トータルカウンセラー 松本 雄司

日台の架け橋になった夫婦

台湾で最も尊敬されている日本人

東日本大震災の時、200億円もの支援金をくれた台湾。しかも、その90%は一般市民からの義援金でした。日本の災難に対して、なぜこんなにも多くの台湾人が温かい支援を寄せてくれたのでしょうか。

先ごろ台湾で行われたアンケート調査によれば、「あなたが最も好きな外国はどこですか」という質問への回答は、第1位が日本でした。46%の人が「日本!」と答えたのです。第2位の中国が7%、第3位のアメリカが6%であったことを考えると圧倒的な数字です。

なぜ、台湾の人達はそんなに日本が好きなのか…。その理由には、戦後の日台交流に尽力してきた人々の功績もありますが、特に戦前、台湾人を愛し、台湾の発展のために身命をなげうってきた多くの日本人がいたということを挙げざるを得ません。

その代表的な人物が「八田與一(はったよいち)」です。日本では、最近やっと知られるようになりましたが、台湾では、ほとんどの人が彼のことを知っています。

台湾の人々から「大恩人」と言われる八田與一は、1886年(明治19)石川県の生まれ。東京帝国大学工学部土木科を卒業し、当時、日本の統治下にあった台湾に渡り、台湾総督府内務局土木課の土木技手として就職しました。

苦節10年、東洋一のダムと農業水路を建設

彼は台湾全島を視察して、嘉南(かなん)平野に着目しました。嘉南平野は台湾南西部にある南北110㎞、東西71㎞、面積15万haの広大な土地でしたが、干ばつと洪水を繰り返す不毛の荒れ地で、農民は耕作に苦労し極貧の生活にあえいでいました。

彼は何とか農民たちを救う道はないものかと考え、平野の上流の烏山頭(うさんとう)に巨大な貯水ダムを建設し、その水を平野全体に引き込む大胆な水利工事の構想を立てました。

あまりにも大規模な計画で予算も巨額に上るため、最初は事案が却下されましたが、彼の熱意に動かされ、政府も許可を下し、その建設を八田技師に託しました。

1920年(大正9)に建設工事を開始しましたが、2年後には50人余の死者をだすトンネル爆発事故があり、計画は中止の危機に直面しました。しかし、地元民の協力に支えられ再度立ち上がり、10年にわたる難工事のすえ、ついに1930年(昭和5)3月、東洋一の規模を誇る烏山頭ダムが完成したのです。珊瑚のような形状をしたこの美しいダム湖はいつしか”珊瑚潭(さんごたん)”と呼ばれるようになりました。

ダムにたまる1億5千万トンの水を嘉南平野全域にいきわたらせるために掘られた網の目のような水路は全長1万6千キロメートル、万里の長城の6倍に達しました。

完成から7年後の1937年(昭和12)には、この地域のコメの生産高は以前の11倍、サトウキビ類は4倍になりました。不毛の地が台湾第一の穀倉地帯になったのです。農民の暮らしは飛躍的に向上し、その後の台湾の産業近代化につながりました。

八田が尊敬されるのは、大事業を成し遂げたからだけではありません。毎日1000人もの労働者が働きましたが、いかなる時も現場に起居して率先垂範し、日本人と台湾人の労働者を全く差別せずに接する姿に多くの人々が心を打たれたと言います。心の底から台湾人を愛し、台湾の将来を思う情熱が多くの人々を動かしたのです。

珊瑚潭のほとりに眠る與一と外代樹

八田の妻、外代樹(とよき)さんは同じ石川県の医者の娘でした。16歳で八田氏と結婚し、烏山頭の山中の工事現場でも10年間を過ごし、夫を献身的に支えながら8人の子供を育てました。ダムの完成後は、八田が総督府の勅任技師となって台湾全土の産業開発計画に従事したため、台北市の官舎に移り住んでいました。その後、戦争が激しくなって台北市から田舎へ疎開することになったとき、外代樹さんは子供達を連れて思い出の地、烏山頭に疎開しました。

ダム完成から12年後の1942年(昭和17)、灌漑整備の依頼を受けた八田は、広島宇品(うじな)港から海路でフィリピンに向かいました。5月8日、不運にも彼の乗船した「大洋丸」が東シナ海の五島列島沖でアメリカの潜水艦に撃沈され、帰らぬ人になってしまいました。享年56でした。

大洋丸沈没の悲報に、家族も嘉南の人々も深い悲しみに包まれました。

奇跡ともいうべきは、彼の遺骸が船の沈没から1カ月以上も経って、山口県萩市沖合で漁船の網にかかって発見されたことです。天が一人の義人の死を悼んで、せめてその遺骨を愛する家族の元に送り届けて下さったように思えてなりません。

それから3年、昭和20年8月15日。終戦を迎えて、日本人は全て台湾を出なければならなくなったのです。9月1日の深夜、夫人は遺書を残し、ひとり家を出て烏山頭ダムの送水口の渦巻く水の中に身を投じて夫の後を追いました。45歳でした。

嘉南の人々は、二人の死を深く悼み、珊瑚潭を見下ろす高台に與一の銅像を置き、その後ろに八田夫婦の墓をつくりました。今もなお、命日には必ず慰霊祭が行われ、地元の人々が大切に守っています。