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春夏秋冬つれづれノート

ジャーナリスト 堀本和博

34歳の短い生涯に、俳句や短歌の革新など日本の近代文学史に大きな足跡を残した子規の糸瓜忌に

「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった。」

糸瓜(へちま)忌、獺祭(だっさい)忌、子規忌と呼ばれる明治の歌人、俳人の正岡子規の忌日は今月の19日である。明治35(1902)年のこの日に、結核の骨髄感染(脊椎カリエス)で34歳で亡くなっている。短い生涯であったが、物事を客観的に「写生」という視点で捉え、それまで文語的表現だった俳句や短歌を口語的表現に変えて革新した。それだけでなく、その近代的な新しいものの見方が文学表現全般に大きな影響を与えた、まさに”文学界の巨人”と評価されるのである。

若くして病魔に侵され晩年の7年間はほとんど寝たきりの生活だった。それでも生来の明るい性格と旺盛な好奇心で、新体詩、随筆、小説、評論などの創作活動でも多彩な足跡を残している。ベースボールを「野球」と訳したのも子規。随筆でも『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』やあきれるほど旺盛な食欲が克明に記録された『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』がよく知られる。冒頭は『病牀六尺』からの一節だが、これが死の3か月前の文章である。

ヘチマ

東京・根岸にある子規の終焉の住まい「子規庵」で、折りからの特別展「子規の顔 その2」を見たのは一昨年の糸瓜忌の日である。JR山手線・鶯谷駅から歩いて5分ほど、ラブホテルの並ぶ路地を抜けるとお目当ての元「侍長屋」に着く。子規がここに移り住んだのは27歳の時で、すでに肺結核を患っていた。屋内はほぼ当時の間取りが再現され、庭も往時を感じさせてくれる。庭に実っているヘチマ。執筆机が置かれた6畳間の病床から眺める、棚からぶら下がるヘチマが子規を慰め、元気づけたのであろう。

「首あげて折々見るや庭の萩」と詠んだ、その向こうには松などの木の間に、桔梗(ききょう)、葉鶏頭(はげいとう)、彼岸花、おしろい花などがつつましやかに咲いていた。こんな光景をながめながら死期を悟り、死の前日の18日に辞世(絶筆)となった糸瓜を題材にした3句を仰臥したままで記したという。

「痰(たん)一斗 糸瓜の水も 間に合わず」「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」「をとといのへちまの水も取らざりき」。痰を切る効果のある糸瓜の水は旧暦の8月15日に取るのがよいと言うが、もう私には間に合わないと詠むのである。