機関誌画像

芸術と家庭・・・絵画編(3)

岸田泰雅

国を背負った夫婦の愛と信頼

英国ヴィクトリア女王の家族像

ヴィクトリア女王、アルバート公子、子息たち
(画像クリックで拡大します)

画家フランツ・ヴィンターハルター(1805—1873)が描いた英国のヴィクトリア女王(1819—1901、在位1837—1901)の家族像「ヴィクトリア女王、アルバート公子、子息たち」というのがある。ヴィンターハルターはドイツ人であり、19世紀のヨーロッパ宮廷の王侯貴族の肖像を数多く描いた秀抜な宮廷肖像画家である。ヴィクトリアおよび夫のアルバート(1819—1861)そして5人の子供たちが描かれているが、1846年の作であるから、ヴィクトリアは27歳、夫のアルバートも27歳である。それで5人の子供を抱えているのであるから「素晴らしい」の一言に尽きるが、ヴィクトリアはアルバートとの間に4男5女の9人の子供をもうけ、娘たちを欧州各国に嫁がせて、40人の孫を持つに至った。ヴィクトリアが「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるゆえんである。英国王室の女王夫婦と子供たちの幸せそうな家庭を描いたこの絵画は大量に印刷され、国民に配布されたが、英国民は王室とその王座に座るヴィクトリア女王夫妻を心から敬愛した。

大英帝国の最盛期に君臨した女王

英国は女王の国である。そう言っていいほど、女王の時に英国は栄える。エリザベス女王一世(1533ー1603、在位1558ー1603)の時代、スペインの無敵艦隊を破り、英国は一気に世界史の中心舞台に躍り出た。この女王の運勢と活躍を機に、その後の英国は世界をリードする国家として冠たる位置を築いた。

そして迎えたのが19世紀の英国の大繁栄を築いたヴィクトリア女王であり、彼女の64年の在位期間において、「パックス・ブリタニカ(イギリスの平和)」が実現したのである。ユニオンジャック(英国旗)を翻しながら「日の沈まぬ国」と言われた英国は、ヴィクトリア女王の治世において、大いなる繁栄と栄光を現した。

ヴィンターハルターの絵画から伝わってくるのは、そのような繁栄を築いた女王が子宝に恵まれ、そして夫と力を合わせて家庭を築き上げる家庭人の側面が見えるということであり、その上でなおかつ困難な政治を懸命に取り仕切ることのできる力量を備えた女王であったということである。グラッドストンやディズレーリーといった優れた首相たちを従えて、聡明な政治統治を国内外で展開し、英国を光輝燦然たる国家たらしめたヴィクトリア女王は、真に偉大な女王であったと言えよう。写真に残された女王の表情は、非常に気品があり、苦難を乗り越える意志と度量を持った風格がみなぎっている。

偉大な家庭は偉大な国家を作る

一般的にも、一組の夫婦が家庭を築くことはできても、どういう家庭を築き上げるのか、その内容になると簡単ではない。ヴィクトリア女王の場合、どうであったか。

9人の子供たちをしっかりと育て上げるのは容易なことではなく、子供たちに厳格な教育を施した女王と夫には、確かに悩みがあった。特に、長男のアルバート(愛称バーティー、1841ー1910)の行状の悪さについてである。最も夫婦の心を悩ませたのは、1861年、バーティーが陸軍に入隊し、アイルランドで訓練を受けていた時、女優のネリー・クリフデンと関係を持ち、そのことが両親に知られてしまったことがある。その後、ケンブリッジ大学で学んでいたときにも、学友と組んで不良行為が増すばかりで、ついに、体調不良の父が健康の悪化を押し切ってケンブリッジまで足を運び、バーティーに説教した。この時の無理が原因で、体調をさらに悪化させて、父は42歳の若さで亡くなったのである。この出来事から、ヴィクトリア女王は、すっかり滅入り、バーティーを「できそこない」として、落胆の日々を過ごし、夫なき晩年の生活に引き籠もることが多くなり、先立った夫を偲び、黒い喪服を纏(まと)う姿が頻繁に見られた。

そのようなバーティーも、女王の死後、エドワード7世(在位1901ー1910)として多難な国際政治の外交を巧みに切り開いた。特に日本との関係は、日英同盟(1902年)を結んだ英国王であり、日露戦争(1904年)の際にも、日本への好意は変わらず、ますます親日の度合いを深めていった。

ヴィクトリア女王夫妻の悩みはあったものの、総体的に見れば、母亡き後、バーティーもエドワード7世として大いに活躍したのであり、女王が築いた家庭は偉大であったと結論付けてもよい。偉大な家庭は偉大な国家を作るものである。ヴィクトリア女王と夫アルバート公子の夫婦愛は、周りがどう判断したかを分析する以上に、その絆は深く、英国を背負った二人にしか分からない二人三脚の愛と信頼の世界がそこにはあったと言えよう。