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芸術と家庭・・・文学編(4)

長島光央

「愛の救い」を求めて

「銀の匙」が描く明治期の或る家族風景

中勘助(なかかんすけ)(1885—1965)の作品である『銀の匙(さじ)』を読んだことのある方は少なくないはずです。有名で、評価の高い小説ですから、その内容は日本の近代文学の中でも必ず上位にランクされ、人気の高い作品です。何となくどこかで聞いたような、目にしたような作者と作品名ですが、読んだことはない、という人もいらっしゃることでしょう。

そのあらすじを見てみましょう。これは、作品の中の主人公である「私」が幼少の時、ひ弱で、よくふきでものができるので、薬を飲まされていたときに使用された思い出深い「銀の匙」です。その銀の匙をどこからか伯母が探し出してきて、伯母は薬を飲ませる時には、銀の匙で「私」の口の中に入れてくれました。

愛情深い伯母が面倒を見てくれて幼少時を過ごした時の数々の思い出を主人公は作品の中で語ります。それは明治中期の東京の人々と街並みの姿であり、当時の情景が克明に述べられています。

作品は、1910年、作者が25歳の時に執筆したもので、これを夏目漱石に見てもらったところ、非常によくできた作品であるとの評価を頂きます。

東京帝国大学の文学部に進んだ中勘助は、夏目漱石から英文学の授業を受けています。漱石の門下生の一人ではありますが、中勘助は他の作家たちと違い、孤高の人であり、独特の作品世界を作り上げています。

『銀の匙』に複雑な話の展開があるわけではありません。幼少時、伯母の献身的な愛で育て上げられた主人公「私」の思い出話がすべてで、それは、作者の自伝と言ってもよいものであり、病弱で神経過敏な「私」の鮮明な記憶が繰り出す話の一つ一つが興味深く、また、伯母の人柄が手に取るように伝わってきます。

なぜ伯母が「私」の面倒をよくみてくれていたのかというと、「私」は難産のため母の産後のひだちが悪く、結局、母は伯母の手に「私」の養育を委ねていたからです。伯母は夫を失い、寄る辺のない身の上で「私」の家に同居していたのです。

素直で淡々とした筆致ながら、母親代わりの伯母の情愛とそれに甘え切って育った病弱な「私」の関係が、明治期の日本の家族風景の一つとしてあったと思えば、中勘助により情景描写された『銀の匙』は秀逸な出来栄えです。

今よりも遥かに家族、親族の関係が深かった在りし日の日本の姿です。

晩婚の中勘助、その背景にある愛の苦悩

中勘助の結婚は57歳のときですから、非常に遅いものでした。彼の他の作品『犬』や『提婆達多(でーばだった)』を見ると、その謎が解けます。14歳上の彼の実兄である金一の妻末子に、中勘助は心を寄せ続けていました。そのことが大きな原因と考えられます。兄は福岡医科大学(九州大学医学部)の教授でしたが、病に倒れ、その兄金一の看病で疲れ果てた兄の嫁末子は1942年に59歳で亡くなります。後を追うようにその半年後、兄の金一も71歳で世を去ります。

兄夫婦を失った1942年のその年、中勘助は15歳下で書道家の嶋田和と結婚しますが、友人に、末子に似ているでしょうと語っていたそうですから、末子の面影をどこまでも追い続けていたと思われます。兄弟の妻に思いを寄せ続けるなど、一般的には、異常な感覚の持ち主であると思われても仕方のないことでしょう。中勘助に関する論評などで、しばしば、指摘されるのが、この中勘助の愛の葛藤ともいうべき世界です。

愛は天国をつくり地獄もつくる

夏目漱石の『心』、太宰治の『人間失格』、いずれも人間の心の闇を描いた深刻な作品です。近代の作家たちが自らの心の深奥部に存在する矛盾性を見出したとき、それを何らかの形や表現で作品に表さざるを得なかった。その矛盾性の最大のものが「男女の愛」であると見て差し支えないと思います。

中勘助もまた、例に漏れず、愛の矛盾と葛藤を人一倍感じながら生きた作家、詩人であったと言ってよいでしょう。『銀の匙』ではさほど分かりませんが、『提婆達多』などの仏教的な内容を仮借(かしゃく)してのちに書いた作品ではっきり分かることは、純粋かつ絶対的な愛を求める中勘助と、それを突き崩して堕落的な移ろい易い愛を容認するかのような中勘助の両人がいて、その二人が激しく闘っているという内容です。

何が難しいといっても、愛ほど難しいものはありません。特に、男女の愛は、それが結婚した後、夫婦愛となって円熟させるべきものであることは、頭では分かっていても、多くの葛藤に直面する難問題であることは間違いありません。

したがって、救いがあるとすれば、それは「愛の救い」であるといえるでしょう。絶対愛は天国を作り、堕落愛は地獄を作る。近代の研ぎ澄まされた感性を持った作家たちは、その事実に直面し、葛藤し、作品を書いたのです。中勘助もその一人でした。