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芸術と家庭・・・文学編(6)

長島光央

反目する父子を和解させたもの

志賀直哉の『和解』

志賀直哉
志賀直哉(1926年)

志賀直哉(1883—1971)と言えば、『暗夜行路』という長編小説を書いた人物であるというのが多くの人々の記憶するところでしょう。それと並んで珠玉の中編作品が『和解』であることは世人の認めるところです。『小僧の神様』や『城の崎にて』など、短編に多くの傑作が並んでいることも忘れてはなりません。

志賀直哉は、2歳の時、祖父母のもとへ引き取られ、そこで大きく成長していくわけですが、12歳の時、実母が亡くなり、父親が再婚して次々に腹違いの妹や弟が生まれます。18歳から25歳まで、内村鑑三に学び、人間と社会への問題意識を深める中、足尾鉱毒被害地視察を計画しますが、この件で謹厳な銀行家である父と衝突し、以後、父子関係に深い亀裂が生じて、拭い難い反目と葛藤が続くことになります。34歳になってようやく十数年間の葛藤を乗り越え、父と子が和解を遂げるに至ったという志賀直哉自身が辿った彼の実人生をほぼ忠実に作品化したのが『和解』という名作です。

『和解』の中では、足尾鉱毒被災地視察云々への直接の言及はないのですが、この事件以外にも、いろいろなことがあったと思われます。直哉の兄が幼少で亡くなり、志賀家の跡取りとして次男の直哉の重要性が認識されたことから祖父母のもとへ2歳のときに預けられたため、祖母の留女(るめ)が事実上の母親そのものの役割を負うことになります。祖父は直哉が23歳の時亡くなっていますから、祖母は直哉(作品の中では順吉)にとって絶対的存在なのです。

また、直哉の結婚問題でも父との不和がしばしば起きていました。直哉の祖母と父および父が再婚で迎えた新しい母とその腹違いの弟妹たち、彼らが一緒に暮らす麻布の実家へ、父との反目不和から直哉は容易に踏み込めない状況が作られていて、息苦しい緊張感が漂う作品世界が『和解』には広がっています。父と顔を合わせないように、祖母にだけ密かに会いに行くというような実家訪問が書かれています。父が再婚で迎えた母(直哉は継母と呼ばず義母と呼んだ)は、直哉(順吉)と父との間で板挟みとなり、二人の関係に神 経を尖らせて苦労しています。

父子の和解へのカギは何か

父子の反目以来、父は父で、子は子で、何とか状況を打開しなければならないと思いつつも、お互いに簡単に折れるわけにもいかないプライドが邪魔して、父子関係はグルグル回りながら、和解できない意地を張った二人の物語は進みます。麻布から離れて我孫子に住む直哉(順吉)と妻の康子(さだこ)は、第一子の慧子(さとこ)を出産するも、生まれたばかりの女の子の容体が思わしくなく、努力の甲斐もなく死なせてしまいます。

赤子を亡くした次の年、まもなくして、妻の康子がまた懐妊したことを知り、妻も、祖母も直哉にも喜びが広がります。

出産に立ち会った直哉は、作品の中で、「出産、そこには醜いものは一つもなかった。妻の顔にも姿勢にも醜いものは毛程も現れなかった。総ては美しかった」と記しています。そして、この女の子の誕生が父子反目の事態を好転させていくきっかけのようなものになっていくのです。

生まれた子は祖母の名である留女に子を付けて、留女子と命名されます。祖母を頂点に、父と母(義母)、直哉の3層構造の縦軸が、もう一つ4層目の留女子を加えることによって、冷たい不和の冬が霧散し、温かい和解の春が訪れます。

この新生命の留女子を見るために、父、母(義母)、祖母、異母弟妹たち、叔父、叔母などがぞろぞろと我孫子にやってくる話のあたりから、和解の道を求めていた父と子は、歩み寄りはじめ、困難と思われた和解をついに遂げます。

直哉にしてみれば、子の誕生、父から見れば孫、祖母からすれば、曾孫の誕生という慶祝事が、この一家の頑固な凍てついた氷を溶かしてくれることになって、喜ばしいかな、温かい春に向かっていくのです。

子供の誕生が愛の輪を作り上げる秘訣

結婚して子供を儲け、親に見せる。すると親は無条件に喜ぶ。孫の顔を見る親は自らおじいちゃんおばあちゃんになって幸せに包まれる。これは理屈の要らない人生の真実であると言えるでしょう。叔父から来た手紙の中には次のようにありました。

「父上もこの度は大丈夫だろうと話された。君の手紙でも一時的の感じでないと云う事もあるし、拙者もその場で左様感じた。
東西南北帰去来(とうざいなんぼくかえりなんいざ)
夜深同見千岩雪(よふかくしておなじくみるせんがんのゆき)」