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日本人のこころ〈14〉

ジャーナリスト 高嶋 久

出雲——オオクニヌシの国譲り

葦原中つ国の平定が完了

オオクニヌシが葦原の中つ国を治めるようになって長い歳月が経過したある時、高天原を治めるアマテラスが、葦原の中つ国はわが子が治めるべきだとして、オオクニヌシに支配権を譲るように迫りました。これが有名な出雲の国譲りです。もちろん、アマテラスの命があったとしても、国譲りが平和的に行われたわけではありません。

アマテラスは最初、アメノホヒを、次にアマノワカヒコを国譲りの交渉役に遣わしましたが、どちらもオオクニヌシに従ってしまい、高天原に帰ってこなくなってしまいます。そこで最後に遣わしたのがタケミカヅチとアメノトリフネで、タケミカヅチは出雲の国の稲佐の浜に降りると、切っ先を上に剣を海に突き立て、その上にあぐらをかいて、オオクニヌシに国譲りを迫ったのです。

当時、オオクニヌシは既に隠居して、葦原の中つ国の支配権を2人の息子に譲っていたので、彼らの意見を求めます。すると、釣りに出ていたコトシロヌシは国譲りを承諾しますが、もう1人の息子タケミナカタは反対したのです。

そこで、タケミナカタとタケミカヅチは力競(くら)べをすることになり、タケミナカタが敗れてしまいます。そのためタケミナカタも国譲りを認め、自身は遠く諏訪まで逃げ、その地にあった諏訪神社に祀られることになりました。

国譲りというと話し合いで統治権を譲ったかのように思えますが、剣を突き刺して迫ったり、そのあげくに力競べをしたりしているところを見ると、実際にはオオクニヌシ(出雲族)が造った国を天孫族(大和朝廷)が武力で奪ったのでしょう。

興味深いのは、国譲りに関して『日本書紀』に違う話が載っていることです。

オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原の2人の神が訪ねてきて、「あなたの国を天神に差し上げる気はあるか」と尋ねると、「おまえたちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、オオナムチはきっぱり断っています。その報告を受けた高天原のタカミムスビは、オオナムチの意見はもっともだと思い、国を譲ってもらうための条件を出します。

それは、第1にオオナムチは冥界を治めること、第2にオオナムチの宮を造り、海を行き来して遊ぶ高橋や浮き橋、天の鳥船も造ることです。オオナムチはそれらの条件に満足して根の国(冥界)に下ったとあります。

『古事記』には、オオクニヌシは国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処のように太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べたので、出雲の浜に「天之御舎(あめのみあらか)」を造ったとあります。これが、発掘によって明らかになった、高さ48メートルの巨大な出雲大社を建造した理由だとされています。今の出雲大社は24メートルですから約2倍です。

こうして大和朝廷は、それまで従わなかった出雲国がやっと服従したことで、葦原中つ国の平定が完了したことになります。

出雲は古代日本の先進地

ところが、『出雲国風土記』にはまったく別の話が載っています。

国譲りに際してオオナムチ(オオクニヌシ)は、次のように言ったというのです。

「私が支配していた国は天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」

つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、と言っているのです。日本列島の支配者として最初に出雲族がいたが、それを後発の天孫族が奪ったという話になります。

『古事記』が作られたのは712年で、『出雲国風土記』が作られたのは733年ですから、『古事記』の内容は出雲でも知られていたはずです。『風土記』は奈良時代の初め、元明天皇の命で各地の風土・産物・伝説などを各律令国の国庁が編纂したものなので、国譲りについて内容が違っていることは朝廷でも分かっていたと思われます。それでも訂正を求めなかったのは、既に広く知られている話だったからでしょう。

先進文明が大陸・半島からやってきた古代において、日本海沿岸にある出雲は日本列島の先進地域でした。その出雲文化圏は北九州から東北までの沿岸に広く及び、そこでは出雲の神々に対する信仰があったはずです。それを大和朝廷は、太陽神である皇室の祖神アマテラスを中心にした信仰に変えようとしたのでしょう。