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芸術と家庭・・・文学編(7)

長島光央

家庭の在り方を根源的に問う

イプセンの『人形の家』

ヘンリック・イプセン肖像画
ヘンリック・イプセンの肖像画
(エイリッフ・ペーテシェン作、1895年)

ヘンリック・イプセン(1828−1906)はノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督で、「近代演劇の父」と呼ばれています。多くの作品の中で、戯曲の『人形の家』(1879年作)は特に名高い作品であり、その内容は結婚に関する現代的問題を扱った戯曲、すなわち、愛と結婚の家庭劇と言ってよいでしょう。

ノーラは結婚して8年を過ぎ、3人の子供を持つ女性で、『人形の家』の主人公です。彼女の夫ヘルメルは弁護士で、多くの書類に囲まれて生活する人物ですが、作品の中では、幸運のめぐり合わせにより銀行の頭取に出世する場面が描かれます。一応、何の不自由もない幸せな結婚と家庭生活を送る二人の姿が劇場の舞台を飾るのですが、話が段々ややこしくなっていきます。過去においてノーラが取ったある行動のせいで、この幸せな夫婦の先行きに暗雲が立ち込め始めるのです。

かつて夫のヘルメルが病気になり、南の暖かい場所に転地療養する以外にないと医者に宣告されたとき、イタリア行きの莫大な費用を夫に内密にして捻出したのがノーラの罪でした。夫を救うという大義名分はあったものの、用立てしてくれた人物が連帯保証人を求めたとき、ノーラは父親になってもらい、その借用証作成の中で、日付をごまかすという文書偽造をやってしまいました。もし、そのことがバレれば、法律家である夫との関係がたちまち壊れて離婚沙汰になるという不安と恐れの中でノーラの心は休まりません。

お金を用立ててくれた男クロクスタがノーラのところへ現れ、返済を迫るという危機的状況、しかもその男は過去にあった醜聞で現在は不遇の身となっており、ヘルメルに銀行で働かせてもらえるよう頼んでもらえないかとノーラに迫る始末だった。しかし空きのあった銀行のポストにはすでにノーラの友人リンデが採用されていてクロクスタの要求はとても無理なことだった。そもそも、ヘルメルはクロクスタという男が大嫌いで銀行採用などの要求を呑めるはずもない仲でした。

夫ヘルメルが大嫌いなクロクスタからこともあろうに妻のノーラが借金していたとは!ことの全容が発覚した時には、夫の全ての愛を失って、ノーラは自分の命を絶つ以外にないという緊迫したストーリーの中で、話は意外な展開を見せます。

一人の人間として自覚するノーラの自尊心

夫を亡くし子供もなく孤独な寡婦となっていたリンデと不遇の中にあるクロクスタが急接近し、クロクスタの子供たちの母親になってあげたいというリンデの言葉にクロクスタ(おそらく妻には逃げられていた)は、リンデと寄り添い幸せの道を歩んでいくことになります。そのクロクスタは問題の借用証をノーラのもとへ返してきました。事の全貌をすっかり理解したヘルメルは怒りを表しつつも、ノーラがクロクスタとのトラブルから解放された安堵感からノーラに愛を示し、喜びの気持ちをあれこれ語りました。そしてノーラをもっと監視し教育し、子供たちの教育もノーラに任せていてはダメで、ヘルメル自身が担当すべきだと考えるようになりました。

ここに、ノーラの積年の恨みつらみが爆発することになります。ヘルメルに対するノーラの言葉は辛らつでした。ノーラの父親も夫のヘルメルも、ただ可愛い可愛いと言ってノーラを人形扱いし、その夫の気持ちに応えるかのように、ノーラは、いわば、人形妻として振る舞い続けてきたのでした。

夫婦らしい深いコミュニケーションなど一切なく、何かを二人でしっかりと分かち合うといったことも皆無だった、上から目線で一方的に訓示を垂れるような物言いしかなかった、まるで子供のような扱いにしかされず、人格的存在として認められることはなく、可愛い人形として慰み物のように扱われてきた。もうこういう人生は嫌だというのがノーラの壮絶な叫びでした。

ノーラはここに自立宣言をして、夫も子供も捨て、生まれ育った実家に戻り、まるで修道女のように、一人の女性として、一人の人間としてやり直すことを決意したのでした。

互いの人格を認め合ってこそ結婚は成立

『人形の家』は発表当時からとにかく話題性の多い、ともすれば男性の束縛から女性は解放されるべきであるとする女権運動(フェミニズム)のシンボルとして宣伝されてきましたが、作品を素直に読めば、夫婦愛を中心とする家庭の在り方がその本質です。妻である前に自分とは何か、人間とは何か、それを見つけることが人間の義務であると言っているのであり、そういうことに無頓着であると、愛や結婚の真実も見えなくなってしまう、お互いを人格的存在として認め合ってこそ結婚は成立するのだとイプセンは言っているのです。