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芸術と家庭・・・絵画編(6)

岸田泰雅

「家族に祝福あれ」

バジルの「家族の集い」

家族の集い
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「家族の集い」(1867年)と題する堂々たる画がオルセー美術館に収蔵してある。大きなキャンバス(152×232センチ)に6人の女性、5人の男性、合わせて11人の人々を描き込み、何やら一族が集合しているような画、すなわち、名家と思われる一族で構成された集合家族のような油彩画である。構図は野外であり、背景には田舎の広大な畑が広がっている。

作者はフランスのジャン・フレデリック・バジル(1841—1870)で、印象派の画家の一人である。享年29歳というのは非常に若い命を散らしたということであるが、それは、ジャンが1870年の普仏戦争に志願して、戦死したからである。

バジルの家庭は、南フランスでワイン製造を営む裕福な名家であり、彼は当初、パリで医者になることを目指して医学を学んでいたが、同時に画塾に通い、結果的に画家の道を選択した。

シャルル・グレールの画塾では、モネ、ルノワール、シスレーなどと交友を深め、共に戸外制作活動を行った。バジルの才能を見たモネは「君は非常に恵まれた才能を持っている。あらゆる条件を満たした画家だ」と称賛の声を惜しまなかったと言う。

一族の家族を集合させて集合家族を描くというあまり一般的ではない画の構図が、バジルによってあえて描かれた背景が気になる。その理由は、バジルが画家になろうとする道に反対していた一族を納得させる意図から出たものであると考えられている。画を見てもわかるが、南フランスのモンペリエで暮らしていたバジル家の一族はそれぞれ立派な装いをして、社会的にも立派に生きていた名家のように思われる。やはり、医者になってほしいというのがバジルへの偽りのない期待であったのだろう。この画の左の端に、背の高いジャン・フレデリック・バジル本人が描き込まれている。そして、その横に父親が描かれている。

どうやら、この画の制作は、一族を納得させるに十分な働きをしたようである。ジャンは画家の道へと突き進んだ。

印象派を超え様々な流派を取り入れる

バジルの「家族の集い」を見ると、印象派としての作品の匂いがあまりしない。事実、バジルは、20代前半は外光要因を取り入れて印象派の流儀に従った作品を描いていたが、20代後半になるとアカデミックな表現へと変貌していった。従って、印象派の友人であるモネやルノワールの作品とは一線を画している感を否めないのである。アカデミックな表現へ近づいた結果、写実主義の画風が強くなり、古典的な静謐(せいひつ)感が作品の中に漂うようになったと言ってもよいが、とりわけ、クールベの写実主義の画風に近いものがある。非常に古典的な作品を鑑賞しているような気分になるのである。

それにしても、一族の4、5組の夫婦が一堂に会し、画幅に収まった様子は重みがあり、まるで「このようにしてわが一族は栄えております」と暗黙のアピールを観る者に送っているようだ。それは同時に、こういう堅気の一族から画家を目指す変わり種の人物(ジャン自身)が出たことを社会にアピールしているようでもあり、自分の姿をちゃっかり左端に描き加えて、「どこかで私を見かけることがあるかもしれませんが、以後、お見知りおきください」と訴えるユーモアをも忘れていない。

モネが言うように、バジルは才能多き人物であったから、普仏戦争の犠牲に倒れるというようなことがなければ、19世紀後半期のフランス画壇において輝きを放つ画聖になっていたかもしれない。愛国心ゆえに戦場に赴いたのはわかるが、惜しい人物を夭折させたものである。

集合家族で家族の絆の重みを訴える

バジルの「家族の集い」は、現代で言えば、何かの時に一族が集まって記念写真を撮るようなものと似ている。バジル家の雰囲気が遺憾なく表現されている歴史的な油彩画であり、気位の高い堅気の一族は、それぞれの夫婦、家庭というものがしっかりとしており、いい加減なものは一人もいない名家であると、観る者に訴えているようである。

激動の18世紀から19世紀へとヨーロッパは変革の嵐が打ち続く状態で、1815年にナポレオン時代に一つの区切りをつけたフランスであったが、その後も1830年の7月革命、1848年の2月革命、1870年の普仏戦争といった動乱の中を駆け抜けた。

「家族の集い」に見られる平和の風情は南フランスの情景として理解できるが、パリを中心とする政治は国際外交の辛辣なゲームの中で緊迫の連続。そうであるからこそ、1867年という時点でのバジルの「家族の集い」は、驚くほど静謐の平和が宿っており、家族の集合がどれだけ美しい光景であるかを浮き立たせてくれる作品である。家族に祝福あれとバジルは叫んでいる。