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日本人のこころ〈19〉

ジャーナリスト 高嶋 久

広島——『新・平家物語』吉川英治

平清盛の日招像

この7月、西日本豪雨で大きな被害を受けた広島県呉市。音戸大橋を見下ろす高台に、小説『新・平家物語』の取材で昭和25年に当地を訪れた吉川英治の文学碑があります。橋を渡った倉橋島にある清盛塚に向け「君よ今昔之感如何」、絶頂の後、失意のうちに病死した平清盛に、「(今の日本を見て)今昔の感はどうか」と問いかけたのです。

様々な職を経て作家活動を始めた吉川は、『鳴門秘帖』で人気作家となり、昭和10年に連載を始めた『宮本武蔵』で人気を博します。しかし戦後になり、戦争を鼓舞する作品を書いたことへの悔恨から、筆を執れなくなってしまったのです。戦後知識人の軽薄な言動を見ながら、大衆作家としての自分の在り方を深く考えていた吉川が、執筆を再開したのは昭和22年のキリシタン大名を描いた『高山右近』。23年に週刊朝日で連載を始め、同誌の部数を飛躍的に伸ばしたのが『新・平家物語』です。

吉川が描く清盛は、それまでの悪人イメージを一変させるもので、戦いを嫌いながらも、時代の流れの中で戦わざるを得ない、昭和の日本人を投影したものでした。つまり、歴史上の人物に託して、今の日本人へのメッセージを書いたのです。戦後民主主義に偽善を感じていた大衆は、人と歴史の実相を描く吉川の小説に共感し、やがて吉川は「国民文学作家」と呼ばれるようになります。

呉市にある「音戸の瀬戸」は、本土と倉橋島の間を流れる幅70メートルの海峡で、宋の大型船が通れるようにするため、清盛が開削したと伝えられています。今は海峡の上に音戸大橋が架かり、橋の両端はらせん状になっていて、車は曲がりながら上がり降りしています。

音戸の瀬戸は潮の流れが速く、工事は困難を極めました。開削工事を1日で完了させようとした清盛が、沈んで行く夕日を扇で招くと、太陽が動きを止め、逆に天空に昇り、その日のうちに終えることができたという話が伝わっています。権力の頂点を極めた清盛のことが、そんな風に語られたのでしょう。

本土側にある高烏山(たかからすやま)の音戸の瀬戸公園に登ると、立烏帽子(たてえぼし)に直垂(ひたたれ)姿の清盛が、西の方向に扇をかざしている「日招像(ひまねきぞう)」が建っています。遠く西には安芸の宮島が望めます。

音戸の瀬戸を切り開いた清盛は、それまで行われていた人柱の代わりに、経文を書いた経石を海底に沈め、難工事を完成させました。福原(現・神戸)に築いた大輪田泊(おおわだのとまり)(現・兵庫港)の人工島「経が島」と同じ話です。そんな清盛の功徳をたたえる清盛塚が、音戸大橋を見上げる倉橋島の海辺に設けられています。

厳島神社を平家の氏神に

安芸守になった清盛が宮島にある厳島神社を平家の氏神とし、壮麗な社殿に造り替えたのは、古くから宮島が海の守り神として、瀬戸内海を航行する海の民に信仰されていたからです。

島にそびえる弥山(みせん)の山頂には、山岳信仰の痕跡を伝える巨石があり、霊火堂には、唐から帰国した空海が修行のためともしたとされる「消えずの火」が、1200年前から燃え続けています。

こんな話も伝わっています。大塔の修復が成った高野山を訪れた清盛の前に老僧が現れ、「荒廃している厳島神社を修復すれば、並ぶ者がいなくなるほど官位が上がるだろう」と告げ、姿を消しました。清盛は空海が現れたのだと信じ、厳島神社の修復を決めたのです。

海に浮かぶ社殿や大鳥居は、いかにも清盛らしい発想です。宋との交易の拡大を目指す清盛は、宋の商人が船から見て驚くような神社にしようと考えたのでしょう。飛鳥時代に、大坂湾の港に四天王寺を建てた聖徳太子と似ています。

源氏が京都の南を守護する石清水八幡宮を氏神としたように、都に近い近畿の寺社を後ろ盾にするのが当時は普通でした。清盛がそうしなかったのは、莫大な財産と権力を持つ近畿の寺社から距離を置こうとしたからです。そのため、平家は寺社の反発を買うことになります。

江戸時代までの日本人の信仰は神仏習合が一般的で、神社には神宮寺が、寺には鎮守がありました。明治初めの神仏分離令は神社に対して出されたもので、僧や仏像など仏教色の排除を命じるものです。それに便乗し過剰反応したのが廃仏毀釈で、奈良の興福寺の五重塔が、わずか25円で売りに出されたくらいです。

厳島神社の神宮寺に当たるのが、弥山のふもとにある大聖院で、真言宗御室(おむろ)派の大本山。かつては12の末寺を持って、厳島神社の別当職として祭司を担当し、山頂にも多くのお堂がありました。

厳島神社には、インドから中国、朝鮮を経て伝えられた舞楽が残っています。発祥の地インドはもとより中国、朝鮮でも消えてしまったので、貴重なアジアの文化遺産です。清盛は四天王寺の楽所を厳島神社に移し、盛んに奉奏させました。その一つが「蘭陵王(らんりょうおう)」という勇壮な舞で、海に浮かぶ朱色の大鳥居を背景に躍動する姿を、清盛も堪能したことでしょう。