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芸術と家庭・・・文学編(8)

長島光央

山上憶良は家族愛のモデル

万葉集」は日本人の魂の歌である

「万葉集」を愛読する人々は少なくありません。時代を超えて、読まれ続けてきた偉大な古典です。7世紀後半から8世紀後半ごろまで詠まれた和歌の数々が編纂されたもので、4500首余りの歌が収録されています。「万葉集」を味わえば分かるのですが、古代人の魂と現代人の魂が交感できる精神世界を見出すのであり、それ故に、「万葉集」には日本人の心情の原型が歌のかたちで様々に詠まれ、古代の人々の喜怒哀楽の情感がそのまま現代の私たちの心の中に易々(やすやす)と入ってくるのです。

詠み人も天皇から一般庶民の詠み人知らずまで、実に古代日本人のオールキャストであり、それらが「万葉集」にまとめられたのですから、編集者の姿勢は極めて民主主義的です。その中で多い歌と言えば、「相聞」(男女の恋の歌)で、1700首余りありますからおよそ全体の4割近い比率を占めています。やはり男女の愛というテーマは人間性の基本的要素であり、不動の位置を誇っていると見てよいでしょう。

家族思いの歌が多い山上憶良

「万葉集」には、多くの歌人が登場し、大伴家持、大伴旅人、柿本人麻呂、山部赤人など、有名な人も多い中で、見落とせない歌人として山上憶良(やまのうえのおくら)(660〜733)という人がいます。「万葉集」には78首の憶良の歌が載せられていますが、この人の歌は非常に心情的で、家族思いの歌が多いのです。ついつい、家族愛のモデルが古代の日本にいたんだなあと思ってしまうような歌人です。良き家庭人であったことは間違いないでしょう。

「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめやも」(銀も金も宝石も、どうして優れている宝である子どもに及ぶだろうか、いや及ばない)

どこかで聞いたことのある歌です。まさしく山上憶良は子煩悩の極致です。

「憶良らは今は罷(まか)らむ 子泣くらむ そのかの母も 吾(あ)を待つらむそ」(憶良は今から退席します。子供が泣いているだろうし、その母親も私を待っているでしょうし)。

子供を思い、妻を思う憶良は、一刻も早く家に帰って家族に会いたい心情を隠しません。無理やり、会社の残業や飲み会に付き合って、家で待っている妻や子供に寂しい思いをさせてはならないという家庭優先タイプの人物です。

山上憶良は、政府の役人として唐に渡ったり、筑前守を務めたりしている人ですから、下級の庶民というわけではありません。しかし、その時代は、全体的に、国家そのものが豊かであったわけではなく、上も下も貧しさに耐えなければならない時代でした。そこそこの暮らしをしていた憶良かもしれませんが、当時の農民に目を向ければ、極貧に喘ぐ庶民の暮らしを否が応でも理解しなければなりませんでした。山上憶良と言えば、「万葉集」に収録されている有名な「貧窮問答歌」ということになりますが、憶良の優しい思いやりの心が、「貧窮問答歌」を詠ませたのだと言わざるを得ません。

「我れよりも 貧しき人の 父母(ちちはは)は 飢え寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ」(自分よりも貧しい人の、父母は飢え凍えているだろう、妻や子供たちは食べ物を欲しがって泣いているだろう)。

慈悲の心に溢れた官吏の憶良は、庶民たちの暮らしを気遣っているのです。

時代を超え、家族を思う心情は不変

憶良の歌のほかに、防人(さきもり)の歌に家族を思う心情が吐露されているものが多くあります。

「韓衣裾(からころむすそ)に取り付き 泣く子らを 置きてそ来(き)のや 母なしにして」(渡来人風のころもの裾に取り付いて泣く子たちを、母もいないのに家に置き去りにして、出発してきたことです)。

作者は信濃の国(長野県)の人です。この歌は防人歌です。裾に取り付いて泣く子らを、母もいないのに家に置き去りにしてきたと、防人は歌っています。痛切に胸の痛む歌であり、残された子らは大丈夫だろうかと気になります。壱岐、対馬、北九州防衛のための警備兵が防人と呼ばれるのですが、防人たちの多くは東国出身です。そこには数々の悲しい場面がありました。子供たちとの別れ、妻との別れ、父母との別れ、それでも行かなければならない西国への国防任務(中国、朝鮮から日本を守る)、これが防人でした。国防任務の中で、防人たちは家族への思いを抱き続けました。

憶良にせよ、防人にせよ、家族に思いを馳せる古代人たちの心情は、現代人においても同じでしょう。人にはそれぞれの仕事があり、立場があるとは言え、家族という共通分母はすべての人間に同じであり、家族の愛なしには生きられません。神様が人間に与えてくれた最高の贈物が、家族愛という愛の喜びであり、愛の平和です。