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愛の知恵袋 122

家庭問題トータルカウンセラー 松本 雄司

人生は掛け算…「何をどれだけ愛するか」

人生は一度きりしかない

新年あけまして、おめでとうございます。

今年が皆様とご家族にとって良き年となりますように、心からお祈り申し上げます。

さて、新しい1年の出発です。過去を振り返って反省し、これからの人生をいかに生きるべきかを考える時間をぜひ持ちたいものです。

人は誰でも、天から”一つの命”を与えられて、この世の人生を歩む機会が与えられます。

裕福な家に生まれようと、貧しい家に生まれようと、この点では平等で変わりがありません。

「死んだらどうなるか」という疑問に対しては、各人の人生観によって様々な見解がありますが、自分の「この世での人生は、ただ一度きりである」ということは明確です。

だからこそ、どのように生きるかということが問題です。時の流れに身を任せ…というような凡庸な人生ではなく、死ぬ時に後悔のない充実した人生にしたいものです。

そのためには、「価値ある目的のために生きる」ということが必要です。

一般的な人物評価と本当の評価

「棺を蓋いて事定まる」ということわざがあります。人の評価は生きているうちは利害や感情が絡むのでわかりにくい。死んだ後にこそ、その人物の真の価値がわかる…という意味です。

自分が死んだ時に、心の底から惜しみ、悲しんでくれる人が何人いるか…それが問題です。

それは、今の自分に心から感謝し、尊敬し、慕ってくれている人が果たして何人いるのか?…ということを考えてみれば、おのずと答えが見えてきます。

一般的には、私たちはある人物を評価する時に、その人物の「能力」の大きさで評価しています。つまり、その人の学歴や職歴、社会的な地位や業績などで判断していることが多いのです。

もちろん、私生活の面で倫理に反することをすれば評価は下がるので、道徳的基準での判断もしますが、おおむね、頭の良し悪しとか、身体能力とか、仕事の能力などで判断しています。

そこで、多くの人々がスキルアップのために、時間とお金と労力を注ぎます。この世で裕福になったり有名になったりして、成功者になるためにはそれが役に立つからです。

しかし、私は、ある人物の「真の値打ち」というものは、その人の「能力の大小」によって決まるというよりは、その人が「何のために生きたのか」によって決まるのではないかと思います。

また、人間には「能力」だけでなく、「愛情」という分野がありますから、別の言葉で言えば、「何を、どれだけ愛したのか」によって決まるということです。

私の人生を”何”にかけるか

私×「自分」=個人的人物…私が私のために生きれば、死んでも誰も惜しんではくれない。

私×「家族」=家庭的人物…私が家族のために生きれば、家族が感謝し覚えていてくれる。

私×「親族」=氏族的人物…私が親族のために生きれば、親族が感謝し覚えていてくれる。

私×「地域」=地域的人物…私が地域のために生きれば、地域の人々が覚えていてくれる。

私×「国家」=国家的人物…私が国家のために生きれば、国民が感謝し覚えていてくれる。

私×「世界」=世界的人物…私が人類のために生きれば、世界の人々が覚えていてくれる。

つまり、自分の能力が大きかろうと小さかろうと、その差が問題ではなく、その能力を「何のために用いたのか」ということによって人生の値打ちというものが変わってきます。

従って、私たちは自分の能力が他人より劣っていても失望する必要はありません。自分が「何のために生きるか」、「何をどれだけ愛するか」が重要なのです。たとえ、自分は小さな者であっても、「崇高な理想」「価値ある目的」のために生きれば、”尊い人生”になります。

誰にも聖人になれる道は開かれている

そういう意味では、最高に価値のある人生というのは、世界・人類よりももっと大きいもののために生きること…すなわち、宇宙の根源者、天地の創造主のために一生を捧げた人こそが、最も偉大な人生を送った人と言えるでしょう。

そう考えれば、イエス、釈尊、孔子、マホメットのみならず、シュヴァイツァー博士やマザー・テレサのように、神と人類のために生きた人たちも皆、聖人と呼ぶべきでしょう。

さらにもう一歩踏み込んで言えば、たとえどんなに小さく貧しい者でも、天のため人のために生きれば、聖人と等しい価値のある人生を送ることができるのだ…ということができます。

神を愛し、人を愛し、祖国を愛した内村鑑三は、その信念を自らの墓碑にこう刻んでいます。

I for Japan;
Japan for the World;
The World for Christ;
And All for God.

「我は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして、全ては神のために」