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福祉のこころ 地域医療・包括ケアの現場から (7)

医 師 高野広木

取りもどした共感という感覚

私は小さな診療所で医師として働いている。慢性期の病気を持つ高齢の患者様が多く、時間がゆっくりと流れている。数か月前まで勤めていた総合病院での、時間があわただしく流れていたときのことを、今、懐かしく感じている。

かつての総合病院では、けたたましく救急車のサイレンが鳴ったかと思うと、ストレッチャー(担架)に乗せられた患者様が、目の前を急いで運ばれていく。患者様の容態が急変したことを告げるブルーコールが鳴り、若い医師たちが患者様の病室に集結し、心肺蘇生を行っている。医師を乗せたヘリコプターが、バリバリバリとプロペラが風を切る音とエンジン音とが窓の外から聞こえたかと思うと、急いで飛び立っていく。まさに野戦病院さながらの光景が日常だったことが記憶に新しい。

このような生死を分ける時間との戦いのなかで、いつしか自分が歯車のごとく、病院のシステムに溶け込んでいくような錯覚を覚えた。救急処置室には、今日まさに自分が重病を負うことになろうとは思いもしなかったであろう患者様が横たわり、集中治療室の前では、患者様の病態が悪いことを医師から聞かされたのか、患者様の家族であろう人たちがすすり泣きをしている。病は突然にやってきて、患者様とその家族の人生に大きくのしかかる。心の受け容れができるようになる時間は、当然与えられない。病は無慈悲であると思う。

また、その宣告をしなければならない医師である自分自身も、無慈悲であると思うことがある。自分や自分の家族におこったことであれば、どれだけ悲しいことであろうか。ふとそういう思いが心をよぎりながらも、患者様とその家族には厳しい宣告をしなければならないのだ。

医師になって初めのころに感じていたそういう心の思いさえも、今では感じることが出来なくなっていたことに、総合病院を退職して診療所で働き始めてあらためて気づかされた。それは、総合病院の目まぐるしく動くシステムのなかで、いつしか薄れてしまっていた「共感」という感覚であろうと思う。

私が今勤務している小さな診療所では、総合病院のようにたくさんの医師はいない。高度な医療機器もない。しかし、ここには患者様が病を受容し、それに向き合うことができる時間がある。そして、患者様の心と接することができる時間がある。なによりも、あわただしい環境のなかで薄れていた共感という心の感覚を取り戻すことができるとあらためて思ったのだ。

ふと、医師を志したときに、湖のほとりで、心に誓ったことを思い出した。「患者様と共感できる医師になること。そうすることで自分自身も成長できるようになる」と確信したこと。今こそ初心を貫徹するときであると思った。