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愛の知恵袋 123

家庭問題トータルカウンセラー 松本 雄司

逝って知る、父母の大きさ

戦前・戦中・戦後を生き抜いてきた両親

私の父は大正元年、母は大正8年生まれです。母は結婚するまで、倉敷絹織(倉敷レイヨン、現・クラレ)の社員で、重役秘書などを経て岡山工場の女子社員寮(400名)の舎監となり、寮生に華道と書道を教えながら彼女達のお世話をする仕事をしていました。24歳の時、紳士服のテーラーだった父と結婚したため、商業に携わることになったようです。

父はいつも何人かの弟子を抱えながら、注文服の縫製・販売をしていましたので、母も接客やネーム刺繍などで父の仕事を助けていました。いま考えるとおかしいのは、私の記憶する限り、母は一生”和服姿”で通したことです。家業は”洋服屋”なのに…。

父は戦時中、東京で店を開業していましたが、空襲のため郷里の大分県に疎開し、そこでまた再出発しました。やがて、接客の上手な母の助けもあって仕事は軌道にのり、その地域では一番大きい紳士服店になりました。

しかし、私が高校を卒業する頃には紳士服も既製品が普及し、注文服は減少していました。そこで、母は私を大学に行かせるために決心をし、調理師の免許を取って飲食業を始めました。小さな食堂から始めて、だんだん発展させて、大きな宴会もできる割烹にしていきました。

今になって知る、母の心の大きさ

晩年の母は、詩吟や短歌や水墨画を趣味として楽しんでいましたが、明るく穏やかな性格で、聡明だが常に控えめでした。人の気持ちをよく察し、情にも厚い人でしたが、私が心の底から尊敬できたのは、”この上なく心の広い人”であったことでした。

今、思い返しても、私は一度も母親から大声で怒鳴られたという記憶がありません。

困難に直面した時も冷静で、取り乱すことなく凛として対応し、愚痴や恨み言も一切言いませんでした。そういう意味では、まことに腹の据わった人でした。

その母が平成16年に脳内出血で倒れ、84歳で他界しました。倒れてから臨終までの6日間は意識不明の状態でしたが、91歳の父は、病院の待合室で寝泊まりして帰ろうとしません。とうとう声も出なくなるほど衰弱して、姉と私が頼み込んで、やっと家に帰りました。その姿を見て、苦労を共にしてきた母への父の思いの深さを初めて知りました。

母の死後、父が「お母さんは不思議なところがあったね」と言うのです。一介の主婦なのに、町の議員さんやいろんな人達が、どうにもならない難題を抱え込んだとき、なぜか、母のところを訪ねてきたというのです。

母は「ふ〜ん…、ほお〜…」と言いながらじっと話を聞くだけですが、最後にひとこと「そういう時は、こうしてあげたらいいのでは?…」と言うと、その人は「おお、なるほど…!」と言って帰って行くのだそうです。私が今、カウンセラーとして、様々な相談を受ける仕事をさせていただいているのも、母のお陰かもしれない…と思うことがあります。

父の生き様から学んだもの

残った父は独りになりましたが、「田舎が良い」と言って最後まで実家で暮らしました。

父は50代の頃から、別府市に住んでおられた人間国宝の井本完二先生の門弟となって、観世流能楽の謡曲を習っていました。晩年は「これが私の生き甲斐だ」と言って、ボランティアをしていました。町の婦人達に池坊流の華道を教えたり、毎月、老人施設へ慰問に行って、一緒に歌を歌ったり、自分の創作した方言小咄をしたりしていました。また、死ぬまで、ふかし饅頭やちらし寿司などを作っては、近所の老人達に届けていました。

そんな父の生き様から私が学んだ事は、”人間は一生涯、人のために生きることが喜びであり、最高の生き甲斐なのだ”…ということでした。

親が自らの死をもって教えること

母の死から3年後、父が94歳の時、屋外で転倒し骨折して入院しました。私は「まだ満足な恩返しも出来ていない」という思いもあって、仕事の多くをキャンセルして、毎日、病院に通いました。そして、40日の入院療養の後、父は息を引き取りました。

告別式のあと、火葬場に行って父の亡骸を荼毘(だび)に付しました。そして、竹の箸で父の骨を拾います。一通り親族がやり終わったあとも、喪主の私は「一つも残さないで壺に納めてあげたい」という思いで骨を拾っていました。その時、思わぬことが起こったのです。

私の息子はまだ高校を卒業したばかりでしたが、その子が自分から前に出てきて、黙って箸をとり、私と一緒に最後まで骨を拾ってくれたのです。この時、私はなぜか胸が熱くなりました。何か