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日本人のこころ〈28〉

ジャーナリスト 高嶋 久

奈良——聖徳太子(1)

聖徳太子像と富士登山

私は10年前から毎年8月3日、山梨県富士吉田市の浄土真宗本願寺派如来寺(渡辺英道住職)の門徒さんらと一緒に「聖徳太子像富士登山」を続けています。参加者は子供からお年寄りまで、マイクロバスに乗れる28人以内。同寺にある聖徳太子の騎馬銅像を富士山8合目まで運び上げ、一座法要を営む仏事です。

一行は朝5時半から同寺本堂で朝のお勤めをし、6時にマイクロバスで出発。富士山5合目で準備体操をし、そろいの法被をまとい、金剛杖を手に、7時半に富士吉田口から登り始めます。聖徳太子と黒駒、手綱を引く調 使麿(ちょうしまろ)の銅像を2つの木箱に収め、それぞれ若者が背負子に載せて難所の岩場も担ぎ上げます。

10時半に8合目にたどり着くと、山小屋「太子館」横の広場にテーブルを置き、仮の荘厳壇(しょうごんだん)を設営して太子像を安置、花を供えます。渡辺住職ら僧侶の先導で一同が聖徳太子を讃える「太子奉讃」を読経して厳粛に法要を営み、参加者が焼香します。増えている外国人登山者たちが珍しそうに見ています。

寺伝によると、同寺の太子騎馬像は、27歳の太子が「甲斐の黒駒」に乗って富士登山をしたという伝説に基づいて江戸時代の文化8年(1811)、新宿にある富士講の一つ「大久保十三夜講」が寺に寄進したものです。

富士講とは江戸時代の新興宗教の一つで、古くからの霊山であった富士山に年に一度、町内や集落の人たちがお金を出し合い、代表者が信仰登山していました。御師(おし)と呼ばれるガイド役がいて、白装束の一行は江戸から登山口まで歩いて行き、御師の家に泊まって、お参りの仕方を習い、「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら一緒に登ります。「六根」は煩悩や迷いを引き起こす目・耳・鼻・舌・身・意の6つの器官のことで、それを浄化する修行です。富士講の伝統は各地の富士塚などに残っていて、教派神道の扶桑教は富士講を結集して明治6年に発足した教団です。

聖徳太子は推古天皇6年(598)4月に諸国から献上された数百頭の馬の中から甲斐の馬を神馬だと見抜き、舎人の調使麿に飼養させました。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて富士山を越え、信濃国まで至り、3日後に都へ帰ったそうです。当時、甲斐には皇室の牧場があり、調使氏は太子の上宮王家に奉仕する渡来系氏族です。これが「甲斐の黒駒」伝説で、同様の話は東国各地に残っています。

浄土真宗を興した親鸞は、仏教受容に決定的な役割を果たした聖徳太子を「和国の教主」と呼び、崇敬していました。そのため浄土真宗の寺の本堂には、ご本尊である阿弥陀如来の像の左右に、親鸞と聖徳太子の軸や像があります。仏教の他の宗派も、仏教を日本に根付かせた第一人者として太子を共通して崇拝しています。

富士講が盛んだった江戸時代中期から明治の初めまで、太子像は8合目にあった如来寺のお堂に安置され、旧暦5月28日から7月28日まで、登山者がお参りしていたのですが、明治初めの神仏分離令で寺領は没収され、中止になりました。それを約100年ぶりに復活させたわけです。

日本仏教の先駆者

用明天皇の第二皇子として生まれた聖徳太子(574〜622年)の母は欽明天皇の娘・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。叔母の推古天皇の摂政として実力者の蘇我馬子と協調して政治を行い、東アジアの動乱という緊張を受けながら遣隋使を派遣して先進的な中国の文化・制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど大王(おおきみ)や王族を中心とした中央集権体制の確立を進め、仏教や儒教を取り入れ信仰し、古来の神道とともに興隆に努めました。なお聖徳太子は死後に贈られた名で、生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていました。

それまでの日本(倭国)は呪術的な祭政一致の政治を行う大王(天皇)を中心に、豪族たちの連合政権として大和王権が成立していました。ところが、そうした体制では国内を統一し、大陸・半島からの脅威に対応することができません。そこで力を持つようになったのが、大阪湾に面した河内に拠点を持ち、外交が得意な渡来系の豪族たちで、いわゆる河内王権が始まります。近く世界文化遺産になる「百舌鳥・古市古墳群」を残した天皇たちが活躍した時代です。

日本に百済から仏教が公式に伝来したのは538年(552年説も)で、聖明王から欽明天皇に仏像や経典と仏教流通の功徳を賞賛した上表文が献上されました。これが仏教公伝で、それ以前にも渡来人を通して仏教は伝わってきていました。当時、百済は北方の高句麗に攻められ存亡の危機にあり、人口の多い倭国に軍事支援を期待してのことです。

欽明天皇は豪族の長たちに仏教をどう扱うかはかり、物部氏や中臣氏から古来の神々を大切にすべきだとの反対があったので、渡来人と関係の深い蘇我氏にその扱いを任せます。蘇我氏は以前から個人的に仏教を信仰していましたし、その屋敷で育った厩戸皇子も仏教に馴染んでいたと思われます。

聖徳太子が政治のトップとして新しい国づくりに取り組むとき、制度は中国の律令制を導入するにしても、国民は日本古来の文化に根差して育成するのが最適です。渡来の世界宗教である仏教に太子が見いだしたのは、女性を含めて人を差別しない平等思想と、人に施しをすることが自分の功徳になるという社会的循環の思想です。さらに仏教には、インドや中国、朝鮮で国づくりの実績がありました。アニミズム的な神道とも合うので、神道・仏教・儒教を総合した思想で新しい日本をつくることができると太子は考えたのでしょう。日本仏教の創始者は空海、先駆者が聖徳太子というのが私の考えで、次回さらに説明します。