機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」日本人のこころ〈75〉

日本人のこころ〈75〉local_offer

ジャーナリスト 高嶋 久

壷井栄『二十四の瞳』

小豆島の映画村と文学館

香川県小豆島の観光スポットの一つ「二十四の瞳映画村」は1987年に公開された田中裕子さん主演の映画「二十四の瞳」のオープンセットを活用したテーマパークです。撮影用に建てられた「岬の分教場」と、大正から昭和初期の民家や漁師の家、茶屋、土産物屋などが公開され、作家の壺井栄文学館や、1954年に公開された高峰秀子主演の「二十四の瞳」を主に上映する「ギャラリー松竹座映画館」、また2012年日本アカデミー賞10冠の映画「八日目の蝉」の展示などもあります。

壷井栄

壷井栄は明治32年、香川県小豆郡坂手村に醤油樽職人の五女として生まれ、内海高等小学校を卒業すると、海漕業に転職した父の手伝いをしながら、都会にいた長兄から送られてくる『少年』『少女』などの雑誌を愛読していました。

その後、郵便局や役場に勤めますが、肋膜炎症や脊椎カリエスを患い、はしかのため死にそうになったりします。東京から里帰りをしていた隣村の詩人・壺井繁治と知り合い、昭和元年に上京して結婚、今の世田谷区三宿に住み、後に太子堂に移ります。

夫の交友関係から、作家の林芙美子や平林たい子、佐多稲子、宮本百合子らと親しくなり、自分の作品を執筆するようになります。昭和3年に雑誌『婦女界』が読者日記を公募し、『プロ文士の妻の日記』を応募して入選、『婦女界』に掲載され賞金30円をもらっています。

周りはプロレタリア文学の作家が多かったのですが、栄の作風から佐多稲子に児童文学の執筆を勧められ、本格的な執筆活動を開始します。こうして生まれたのが、デビュー作の『大根の葉』です。

戦後間もない昭和27年に発表した『二十四の瞳』は29年に木下惠介監督・高峰秀子主演で映画化され大ヒット、小豆島の名が全国に知られるようになります。

昭和42年に内海町名誉町民となりますが、同年6月23日に喘息発作のため67歳で亡くなりました。47年には栄を顕彰し、郷土の児童・生徒の文学資質の向上を図るため、香川県に壺井栄賞が創設されました。

おなご先生と12人の子供たち

小説『二十四の瞳』の舞台は「瀬戸内海べりの一寒村」と書かれ、小豆島とは特定されていませんが、映画化に際し、栄の故郷である小豆島に設定したことから、以後、広くそう思われるようになります。最初は、キリスト教の雑誌『ニュー・エイジ』に連載され、単行本は光文社から、文庫本は新潮社と角川書店から出されています。あらすじを紹介しましょう。

昭和3年に女学校の師範科を卒業したばかりの大石久子(おなご先生)が、島の岬の分教場に赴任してきます。担当したのは男子5人、女子7人の1年生12人で、「二十四の瞳」の子供たちは若いおなご先生にすぐになつきました。

当時、島では珍しい自転車に乗り、洋服姿で登校するおなご先生は「ハイカラ」そのもので、古い大人たちからは敬遠され、いじわるされることもありましたが、子供たちはいつもおなご先生の味方でした。

ところが、子供たちの作った落とし穴に落ちた大石は、アキレス腱を切ってしまい、分教場に通うことができなくなります。おなご先生を一途に慕う子供たちは、遠い道を歩いて見舞いに訪れるなどしたため、村の大人たちも大石に心を開き、態度を改めるようになります。しかし、足の傷は治ったものの自転車に乗ることができず、分教場に通えない大石は本校へ転任していきます。

5年生になった子供たちは本校に通うようになり、新婚の大石と再会しますが、戦争の時代が生徒たちの暮らしと人生に暗い影を落とすようになります。生活苦に追われた女子は学校をやめて働き、男子は好戦的な雰囲気から兵隊を志願し、大石は彼らの行く末を案じます。

船乗りの夫と結婚し、3児の母となった大石は、徴兵検査のため来ている教え子たちに出会い、「名誉の戦死など、しなさんな。生きて戻ってくるのよ。」と、声を潜めて伝えます。そして、終戦。

昭和21年、夫を海戦で、母親も末娘も相次いで亡くした大石は、代用教員として教壇に復帰します。しばらくして、母校の教員になった教え子の呼びかけで、12人のうち消息のわかる6人が集まりました。時代の傷を背負って大人になった教え子たちは、兵隊塚に墓参りをした後、大石を囲んで小学1年生の時に、分教場で一緒に撮った写真を見ます。

戦場で失明した男性は、一人ひとりの名前を呼びながら写真の顔を指さし、大石は「そう、そうだわ、そうだ」とほほえみながら肩を抱き、女性たちはむせび泣きます。

本作は反戦映画とされますが、それ以上に先生と生徒、生徒同士の心のつながりの深さに感動します。貧しく苦しかったが、心は満たされていたような時代へのノスタルジーから、繰り返し映画化、テレビドラマ化されたのでしょう。時代や環境は変わっても、人々が求めるものは変わらないことを教えているようです。