日本人のこころ〈36〉local_offer日本人のこころ
ジャーナリスト 高嶋 久
奈良県・福岡県──『万葉集』
「令和」の出典に
昨年4月、新元号「令和」の出典になったことで『万葉集』が話題を集めました。奈良時代末期に大伴家持(おおとものやかもち)が編纂したとされる、わが国最古の和歌集です。全20巻4500首以上の和歌が収められていて、天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人、農民まで、さまざまな身分の人々が詠んでいるのが特徴で、作者の分からない和歌も2100首以上あります。つまり、昔から当時まで各地で詠まれた代表的な歌を集めたもので、歌を通して当時の日本人の考えや風俗が分かります。
私は学生時代、犬養孝先生の講演を聞いて、奈良県天理市から桜井市までの「山の辺の道」を何度か歩きました。その道端に作家らの書による万葉歌碑が立っています。
好きな歌の一つは「采女(うねめ)の袖吹きかえす明日香風(あすかかぜ)都を遠みいたづらに吹く」で、天智天皇(てんぢてんのう)の子・志貴皇子(しきのみこ)の作です。
672年の壬申(じんしん)の乱で天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)が天智天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)に勝利し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇となった後、天皇が住まう宮は明日香から藤原京に遷されました。そこで、かつての宮だった明日香を訪れた志貴皇子が往時を偲んで詠んだものです。「采女(女官)の袖を明日香の風が吹きかえしている。いまはもう都も遠くなってしまったなあ」といった意味です。
犬養先生はこれにメロディーを付け、朗々と歌いました。万葉の人たちも、平坦に読むのではなく、古代のリズムで歌っていたのでしょう。縄文時代からの口承文学がまだ残っていた時代のことです。文字は漢字ですが、日本語の音にあてたものです。一部に万葉仮名が混じり、平安時代にかけてひらがなやカタカナが発明され、日本語の表記が豊かになっていきます。この時代、家持の父の大伴旅人(たびと)らによってどの漢字をどの日本語にあてはめるかが決められました。
令和を選定したとされる文学者の中西進・高志(こし)の国(くに)文学館館長(国際日本文化研究センター名誉教授)は、「日本は歌人政治の国」だと言っています。中国の政治家や官僚が漢詩を詠むように、日本の天皇や貴族、官僚らは歌の詠めることが条件の一つでした。
事務的なやり取りは漢文で行い、それぞれの思いや感じは和歌で表したのです。それによって心が通じ合うようになり、理解が深まることで、日本的な和がもたらされたのです。歴代天皇の本音も和歌(御製)に残されています。
平和の訪れを喜び
令和は『万葉集』の冒頭で、大宰帥(だざいのそち)の大伴旅人が730年に邸宅で開いた「梅花の宴」で詠まれた歌32首の序文の最初、「初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す」との文言からとったものです。「令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められている」というのが総理官邸の説明でした。「令は命令の令」という解説もありましたが、令夫人、令嬢という使い方もあるように、うやうやしいという意味です。
「令」は、神職が冠を付け、ひざまずいて神意を聞いている姿の象形文字で、「和」は、禾(のぎ)へんは軍事、軍門を、口(国構え)は互いの成約、和睦を納める箱を表し、「令和」は人事を尽くして神意を待つことが和につながるという意味になります。
序文を全部読むと、「明け方の嶺に雲が往き交い、松の枝は薄絹のような雲を掛け、 夕方の山の洞には霧が立ちこめ、鳥は鳥網のような薄霧に封じられて林の中を迷っている。庭には生まれたての蝶が舞い、 空には年を越した雁が帰ってゆく」と、当時の日本の自然が描かれ、心豊かな民族の自然に対する思いから文化が生まれ育ってきたことがよく感じられます。
大宰府の長官だった大伴旅人は、大納言に昇進して都に戻ることになり、大宰府の役所が管轄していた西海道(九州)の官人たちを邸宅に招き宴を開きました。その場には、家持もいたでしょう。
それを70年さかのぼる663年、唐と新羅の連合軍に白村江(はくそんこう)で完敗し、4万2千の兵を失った日本は以後、唐の侵攻に怯(おび)えるようになります。それを追い風に統一国家づくりを進めたのが中大兄皇子、後の天智天皇です。
朝廷は亡命百済人を使って対馬から畿内に至る要所に山城(やまき)を設け、烽火による通信を可能にしました。福岡県太宰府市に残る水城(みずき)も南九州からの反乱を防ぐためでした。
朝鮮半島で高句麗が滅亡した後、676年に朝鮮を統一した新羅が反唐政策に転じたことで、唐が日本に侵攻してくる恐れは薄らぎます。日本は668年から遣新羅使の派遣を始め、壬申の乱に勝利した大海人皇子は親新羅政策をとるようになります。梅花の宴が催されたのは、東アジアにつかの間の平和が訪れていた時で、当時の日本は防人に駆り出される心配がなくなったのを喜んだのです。