日本人のこころ〈95〉local_offer日本人のこころ
ジャーナリスト 高嶋 久
賀川豊彦 『死線を越えて』(上)
キリスト教社会運動家
賀川豊彦についてウィキペディアは「大正・昭和期のキリスト教社会運動家で社会改良家。戦前、日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った。日本農民組合創設者。『イエス団』創始者。キリスト教の博愛の精神を実践した『貧民街の聖者』として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は現代の『三大聖人』として『カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー』と称された」と紹介しています。キリスト教の信仰を軸に、実に多彩な活動を展開したことが分かります。その生涯は、社会活動の中で信仰を育て、表現したとも言えます
賀川が始めた生活協同組合や共済は今の私たちにとっても身近な存在です。私は集落営農から発展した農事組合法人に参加し、JAやJA共済と日常的に付き合っています。いずれも「一人は万人のため、万人は一人のため」という相互扶助の精神で結成された組織で、賀川が世界の先進的な事例を基に、日本の実情に合わせて創始したものです。ちなみに、農協組合長を務めた私のいとこは、上記の言葉を石碑に刻んでいます。
まずは賀川の生涯を紹介しましょう。
賀川は明治21年(1888)、回漕業者の賀川純一と愛人・菅生かめの子として神戸で生まれました。4歳の時に両親を失くし、徳島にいる父親の本妻に引き取られましたが、愛人の子だと陰口を言われ、孤独な少年時代を過ごします。同33年に旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)に入学した賀川は、アメリカ人宣教師のローガン博士とマヤス博士に出会い、人柄に惹かれて洗礼を受けました。
明治38年、明治学院高等部神学予科に入学した賀川は、図書館で分野を問わず読書を重ねました。愛知県で伝道活動をしていた19歳の時に結核で喀血(かっけつ)し、生死の境をさ迷いますが、奇跡的に一命をとりとめます。同40年、神戸神学校に入学した賀川は、「結核でいつ死ぬかわからないのなら、貧しい人々が住む場所に移り、メソジストのウェスレー兄弟のように命の続く限り救援活動をしよう」と神戸の貧民街「新川」に住み込み、救霊団(神戸イエス団)の活動を始めました。
貧民街で共に活動していた芝ハルと結婚した賀川は、知人らの支援で大正3年(1914)にアメリカのプリンストン大学神学校に留学し、同時に、アメリカの社会運動を見て、日本社会の仕組みを変えようと思い立ったのです。
帰国後、賀川は新川に無料診療所を開設し、「救貧から防貧へ」をスローガンに、労働運動や農民運動、生活協同組合運動などを始め、普通選挙運動にも取り組みます。
大正12年9月1日に関東大震災が発生すると、義援金を集めて東京に行き、被災者救済に奔走しました。同13年には全米大学連盟に招待され、以後、伝道活動や講演を通して賀川の名は世界に知られるようになります。その後は宗教活動に比重を置き、「百万人の救霊」を目標に「神の国運動」を提起、福音伝道のために全国を巡回しました。
世界を協同組合国家に
賀川の社会運動はキリスト教博愛主義の非暴力・平和主義が基本で、共産主義やファシズムを否定しています。1936年、カルヴァンの宗教改革400年を記念する会議に招かれた賀川のジュネーブでの講演を本にした『ブラザーフッド・エコノミクス(友愛の政治経済学)』(コープ出版)では、資本主義でも共産主義でもない「第三の道」として、「人格」と「友愛」による協同組合運動を通した社会改造を唱え、世界が「協同組合国家」で再編されれば、平和で平等な社会が実現すると主張しました。
同時期に始めた労働者の神戸消費者組合は、山の手の婦人たちが始めた灘生協と一緒になることで成功します。賀川は貧民街の子供を山の手の家庭に預けるなど、貧民街にいながら上流婦人や資本家とも付き合えたのです。生協は、関西では英国のロッチデール派ですが関東はモスクワ派が多く、何度も分裂の危機に見舞われます。しかし、賀川は「同じ目的のためには考えの違う人とも一緒に行動する」人でした。
昭和16年4月、賀川は近衛文麿首相の密命を受け渡米、ルーズベルト大統領に会って戦争回避を訴え、日米キリスト者会議では「アメリカ教会への感謝状」を贈っています。
敗戦後の昭和20年9月5日、東久邇宮首相の要望で内閣参与に登用された賀川は、国民の道義心の向上と国際社会への復帰という二つの課題への協力を要請され、道義新生会と国際平和協会を立ち上げました。
同年8月30日、賀川は読売報知新聞に「マッカーサー総司令官に寄す」という長文の公開書簡を発表します。それは、日本が天皇を中心に一つになっている国であることを訴え、天皇制の維持を主張し、天皇の戦争責任を追及する勢力を牽制する内容でした。
戦争を防げなかったことを悔いた賀川は、尾崎行雄を総裁に昭和23年に設立された「世界連邦建設同盟」の副総裁に就任し、議員連盟を結成。同24年に「世界連邦日本国会委員会」が発足すると顧問に就任しました
ノーベル文学賞やノーベル平和賞の候補に何度も推薦された賀川は、昭和35年4月、東京・松沢の自宅で死去、享年71でした。神戸市と鳴門市に賀川の記念館が、東京には松沢資料館が開設されています。