日本人のこころ〈97〉local_offer
ジャーナリスト 高嶋 久
賀川豊彦 鳴門市賀川豊彦記念館(下)
阿波農民福音学校
香川県高松市と徳島県鳴門市を結ぶ高松自動車道の板野インターチェンジを下りて5分ほど走ると、緑の山すそに鳴門市ドイツ館と鳴門市賀川豊彦記念館が建っています。ドイツ館は厳かな雰囲気の石またはコンクリート造りですが、賀川豊彦記念館は大正6年(1917年)、ヨーロッパの農村にある牛舎のような木造建築です。同記念館は、当時この地にいたドイツ人捕虜によって設計された牧舎をモデルに再現されています。牧舎の2階は、戦前から賀川豊彦が阿波農民福音学校として使い、その後は板野教会になっていました。
第一次世界大戦に連合国側で参戦した日本は、中国の青島でドイツ兵約千人を捕虜にし、徳島県板野郡板東(ばんどう)町(現鳴門市大麻町)の板東俘虜(ふりょ)収容所に収容していました。捕虜たちはかなり自由な生活が認められ、その結果、音楽や建築、料理、ケーキなどが地元の住民に伝えられました。ちなみに、ベートーベンの交響曲「第九」の本邦初演は当地で、毎年、記念演奏会が開かれています。機会があれば、ドイツ館と一緒に訪ねてみてください。
賀川豊彦のふるさとに記念館を建てようという機運は、1990年代になって市民の間で本格化し、鳴門市を中心として県内外の企業、団体、個人をはじめ地元の子供たちも募金に協力しました。賀川と縁の深いJA、生協、キリスト教関係者は全国に運動を展開し、約3000人の寄付が集まります。平成15年(2003年)3月に完成した記念館は、賀川の精神にふさわしい草の根の力によって建設されたのです。
館内には貴重な資料とともに賀川の生涯と活動がパネルで展示され、会議室では講演会や勉強会も開かれています。さらに、NPO法人賀川豊彦記念・鳴門友愛会が設立され、財政難の市に代わって記念館の運営や、賀川の「友愛・互助・平和」の精神に基づくさまざまな市民活動を行っています。
賀川が農民学校で教えたことの一つに「立体農業」があります。これは農業と牧畜の連携で、米麦に野菜、果樹、畜産・酪農を組み合わせ、「あらゆる動物、植物を利用し、土地を立体的に機能的に使用する」循環農法でした。その足跡が不法投棄による環境汚染で問題になった小豆島の東の離島・豊島(てしま)に残っています。賀川の小説『乳と蜜の流るゝ郷(さと)』(家の光協会)は福島県の寒村が舞台ですが、それに続くのが豊島での実践です。
賀川が豊島に開拓した「神愛保養農園」の跡地には、1947年に乳児院「豊島神愛館」が開設されると、特別養護老人ホーム「豊島ナオミ荘」や知的障害者更生施設「みくに成人寮」が開かれ、不法投棄事件以前は「福祉の島」と呼ばれていました。その後、豊島は瀬戸内国際芸術祭(瀬戸芸)で芸術の島に生まれ変わっています。2025年の今年、関西万博に合わせて3年に一度の瀬戸芸が開かれますので、ぜひ足を運んでみてください。
輝け老人ボランティア
私が賀川豊彦記念館を知ったきっかけは、建設に寄付金を寄せた一人、徳島県出身でスーパーマーケット「マルヨシセンター」創業者の矢野憲作さんとの出会いです。妻が香川県で取り組んでいた女性のボランティア活動にも協力してもらっていたのでお訪ねし、矢野さんが主宰する「元気で卒寿を生き抜く会」に参加、「生と死のセミナー」などの常連になりました。
その頃、私は東京でライターの仕事をしており、矢野さんの生涯と活動をまとめた『輝け老人ボランティア』(善本社)を出すことになって付き合いが深まったのです。ある時、矢野さんをよく知る10人ほどに集まってもらい、午後から夕食をはさんで話を聞きました。夜が更けて皆さんが帰宅し、奥さんも寝室に去ったのですが、一人だけになった矢野さんはとうとうと語り続け、ついに朝を迎えてしまいました。当時、87歳ながら、その気力と記憶力、体力に感動したものです。
大正4年(1915年)生まれの矢野さんは、大阪市立市岡商業学校卒業後、小売業を経て昭和36年、高松市でスーパーマーケットを創業しました。昭和45年から15年間、会社経営をしながら「小さな親切運動」香川県本部事務局長を務め、50年に社長を退くと、ボランティア中心の生活に変えたのです。57年にはチボリ国際里親の会の会員としてフィリピンのチボリ族の里親となり、以後、小学校の校舎建設など支援を続けました。
平成3年には「香川あすなろ協会」を設立、代表に就任して、個人資産をもとに優れた団体や個人に助成金を寄付し、高齢者の社会活動を支援するようになります。5年に「香川国際ボランティアセンター(KVC)」を設立して会長に就任すると、11年にはラオスに小学校を、12年には職業訓練所や小学校を建設しました。13年には国際交流に尽力したとして香川県知事表彰、ラオス政府から友好勲章を授与されています。
毎朝、仏前で読経するほど信仰熱心な矢野さんでしたが、死後の世界は「何もないだろう」と達観しており、最期まで何かを追い求めているような生きざまでした。今でも思い出すのは張りのある大きな声で、どんな人にも分け隔てなく接していたことです。社会実践の中で信仰を培ってきたのは賀川と同じで、私もUターン後、集落営農での農作業が自分なりの信仰を深めてくれたように思います。