芸術と家庭・・・文学編(15)local_offer芸術と家庭
長島光央
愛と自由がある「婚姻」果たす
泉鏡花の文学世界
日本文学において、その独特の筆致からくる味わいと境地を孤高然として放つ作家がいます。泉鏡花(1873~1939、本名・鏡太郎)その人です。独特のロマンチシズムが漂い、時に、想像豊かな怪奇趣味に走る泉文学は、江戸文学の世界を引きずりながら、現代の世界との融合を遂げる、泉鏡花ならではの世界であると言えます。明治から昭和初めの戦前期に至る時代に、300編余りにわたる数多くの作品を残し、65歳の生涯を閉じました。
泉鏡花の父方は、加賀藩の細工方白銀職の職人で、母方は加賀藩の御手役者葛野(かどの)流太鼓方である中田家です。母のすずは、次女やゑを出産し、産褥(さんじょく)熱で亡くなります。享年29という若さでした。そのとき、鏡花は、わずかに10歳でした。11歳の時、父に連れられて松任(現在の白山市)にある摩耶夫人(まやぶにん)像に詣で、この時以来、終生、強い摩耶信仰を心の支えとして持ち続けました。
泉鏡花は、尾崎紅葉の弟子として有名ですが、紅葉は鏡花を非常に可愛がり、作品の一つ一つに細かく目を通してくれたこともよく知られています。紅葉が亡くなった時にも、葬式の一切を取り仕切り、鏡花は師匠に生涯にわたる忠節を尽くし、その恩義に応えました。
現代の人々が泉鏡花の作品を読むには、少し、難しいところがあります。それは、鏡花が雅文(古典の文体)を多く用いているためです。もちろん、明治期の俗文(語り言葉)も多く、併用する形になっています。また、漢文の教養もあり、漢語や詩文が多く出てきます。このような具合ですから、少し、難儀な気持ちになるのは致し方ないでしょう。
鏡花の『愛と婚姻』
明治28年(1895年)に、鏡花が書いた『愛と婚姻』という短いエッセーのような文章が残されています。22歳当時の鏡花が、結婚についてどういう考えを持っていたかが分かります。もちろん、そこに書かれている考えが彼自身の独特な考えであったのか、その当時の知識人たちの考えであったのか、はっきりとは分かりませんが、おそらく、彼自身のものであると同時に、当時の知識人たちの大方の考えでもあったということだと思います。
結婚について、両家の父母は勿論、親戚一同、媒酌人、友人知人、みな口を揃えて、「おめでとう」と言い、祝福する。泉鏡花は、本当にそうだろうかと少し疑った見方をします。いろいろ難しいこともあり、媒酌人を間に、細かいことなども話し合われて、ようやく両家は合意に達し、無事、結婚式に至った、これを「めでたし、めでたし」と言わずして何と言おうか。と、普通はそう考えるのですが、彼は結婚に至るまでよりも、女性にとっては、結婚後が問題だというのです。慈愛に満ちた父母の元を離れて、舅や姑はどうであろうか。夫はどうであろうか。小舅はどうであろうか。すべての関係者はどうであろうか。また、その近隣の社会はどうであろうか。これまで経験したことのない環境の中で、女性は新しい人生を踏み出すのです。
女性は、結婚すると、親のために、子供のために、夫のために、親戚のために、その役割を果たしていかなければならず、町のために、村のために、家のために、生きていくことを義務付けられ、自分という一個の存在を犠牲にして働き、それでも、泣いてはいけない、死んではいけない、頑張るしかない存在である、これが女性の大変な道であると、泉鏡花は女性の大変さを理解し、同情するのです。どこに愛があるか、婚姻が愛を束縛し、自由を剥奪するように作られているとすれば、それは残酷なことではないのか。このように述べています。これが明治期の婚姻の現実だったとも言えますが、女性が大変であることは現在でもそんなに変わらないのかもしれません。
泉鏡花の婚姻
それでは、泉鏡花自身の婚姻はどうだったのでしょうか。泉鏡花は1902年(29歳)、胃潰瘍のため、逗子にて静養します。友人の紹介によって知り合った「伊藤すず」という女性が、台所の手伝いに来ます。奇しくも、鏡花の母と同じ名前です。そのうち、二人は同居して一緒に暮らすようになります。これに対して、師匠の尾崎紅葉が烈火のごとく怒ります。そのため、二人は別離するのです。
1925年、二人は出会いから27年目でようやく入籍します。二人はとても夫婦仲がよく、終生、お互いの名前を彫った腕輪を身辺から離さなかったといいます。あらためて『愛と婚姻』を読んでみますと、婚姻が愛を束縛し、自由を剥奪するものであるならば、それは真の婚姻とは言えず、真の愛でもないと言った鏡花の意味が分かります。彼は、真の愛と自由がある「婚姻」を52歳にして果たしたのです。