芸術と家庭・・・文学編(22)local_offer芸術と家庭
長島光央
深く大きな父母の愛
方丈記の世界
日本の随筆と言えば、古いところでは、清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」などを思い浮かべることができます。いずれも、日本文学の秀逸さを代表する作者であり、作品です。
特に、世の中の悲惨な出来事を多く見聞きして、山里に庵を結び、遁世の生活を送った鴨長明(1155~1216)は、平安末期から鎌倉初期にかけての変転極まりない時代のただ中、61歳の生涯を送った世捨て人でしたが、気高い文才と教養、音楽へのたしなみなどもありました。彼は山奥で生活を送りながらも、深い洞察をもって、京の都を見聞しながら、それらの出来事を克明に「方丈記」に書き記しています。
やはり、平安時代の末期は、武士の台頭と貴族政治の没落という激動に見舞われた時代ですから、京の都は武士たちの騒乱が絶えませんでした。加えて、安元の大火(1177年)、治承の大火(1178年)などで、都は焼尽の災禍を蒙り、4万人を超える死者が、焼け跡に転がっていたと言いますから、その頃、20歳をやっと過ぎた青年だった鴨長明は世の無常を感ぜずにはいられなかったことでしょう。
そのように苦しみもがいている世の中で、家族愛、特に、子供たちに示す親の愛情がどういうものであるかについて、彼は「方丈記」の中に語らざるを得なかったのだと思います。
苦難の世にあって家族に示される愛情
「方丈記」では、戦乱や飢饉、大火などで引き起こされる食糧不足の中で、家族の愛の絆がどういうものであるか、その真実がいかなる姿であるかが述べられています。それは、時代を超えた家族愛の描写です。
「世をあげての悲惨な中にもまして、最も哀れであるのは、お互いに愛し合っている人々の運命である。相愛の夫婦、深く愛している夫を持ち、妻を持つ人々は、自分は兎に角として、先ず愛する夫へ、愛する妻へと、なけなしの食物すらも与えるのが人情である。
こうした人々は、必ず深く愛する者が、先に餓死しなくてはならないのは、あまりにも明白なことである。このことは、親と子の間には、最も明白に現れるのであった。親を愛さない子は世にあるとしても、子を愛さない所の親は無いはずである。
だから親は必ずその得た食物を子供に与えてしまうので、親は必ず先に餓死しなくてはならないのである。真に最も強き愛は、親の子に対する愛と言わねばならない。こうした変事の時には、最も明らかに現れるのである。
母親の乳房を求めて泣く子供が、方々に見られるのであるが、すでに母親は死しているのに、その屍に取り付いて泣く赤ん坊のいたいけな姿は、この世の地獄と言っても、決して言い過ぎではないような気がするのである。」
京の都を見回しながら、ここに述べられているような現実の姿を目撃した鴨長明は、親の子に対する愛の深さ、そのことゆえに、子供のために犠牲になって餓死していく父や母の姿を目の当たりにし、はげしく胸打たれたのです。長明は、妻子なく一生を過ごした人物ですが、このような親子の姿を多く目撃して、親の愛の深さを痛感したのでしょう。
私たちは、このような平安末期の出来事を通して、850年前の日本の親たちが示した愛の深さを知るのですが、ひるがえって、21世紀の豊かな社会の中で、父母の愛を示すどころか、我が子を虐待したり殺したりする親がいるというのは、どういうことなのかと考えてしまいます。
家族愛の真実の姿を語った鴨長明
鴨長明は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の神事を統率する禰ねぎ 宜の鴨長継の次男として京都で生まれました。高松院(二条天皇の中宮)の愛護を受け、1161年(応保元年)、従五位下に叙爵されますが、父の長継亡き後は後ろ盾を失いました。
長明は元来、その出自からして、神仏に対する信心の深さを持った人物で、和歌を俊恵の門下として学び、琵琶を中原有安に学んだ教養人です。自然と人間の営みに対するその鋭い観察眼は、おのれ自身にも向けられ、自己省察の日々を送る人生を「方丈記」に書き記しました。
とりわけ、しばしば、災禍に見舞われた京都の街と人々の惨状を見て、人間の姿、世の中の変転を仏教的な無常観で語り尽くします。そういう苦しみの中にあっても示される、親の子に対する愛の深さ、自己犠牲的な姿に胸打たれ、それを「方丈記」に綴ったのです。ウクライナ戦争で子供を守る母親の姿は、時を超えて、鴨長明が見た京の街の母親たちの姿と重なります。人生の真実は、とりわけ、深く大きな父母の愛の中にあることを、鴨長明は深い感慨で受け止めたのです。