機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・文学編(23)

芸術と家庭・・・文学編(23)local_offer

長島光央

愛を否定する道はない

芥川龍之介の深遠

芥川龍之介

芥川龍之介(1892~1927)は、深い知性とその知性ゆえに払拭できない葛藤のはざまにあって、解決不可能な苦悩を抱えた、日本近現代史に輝きを放つ天才小説家でありました。一体、龍之介の苦悩の核心にあったものは何であったか。これは、芥川という作家を研究する際に、私たちの興味の中心となるテーマです。

彼の作品のいくつかに現れる、いや、ほとんどの作品に現れると言った方がよいかもしれませんが、一つの問題意識が浮かび上がります。それは、悪の問題であり、悪の裏側にしつこくついて回る愛の問題と言ったらよいでしょうか。

たとえば、「悪魔」という短編がありますが、最後に悪魔が語る本音のようなものが表白されます。信長の時代、伴天連(宣教師)の「うるがん」が、清らかな姫の輿(人を乗せる乗用具)の上にいた悪魔を捕えます。宣教師と悪魔のやり取りが物語のほとんどですが、その悪魔は姫を堕落させたいという思いと清らかな魂を持つ姫ゆえに清らかなままにしておかなければならないという真逆の感情に苦しんでいると伴天連に真情を語ります。

この作品の結論は、悪魔もまた、人間と同じような業の深さに苦しんでいるのだということなのか、それとも、悪魔の持つ「誘惑して人を堕落させる」という本性が人間たちに業の深さを及ぼしているのだということなのか、ふと考えさせられるのですが、芥川龍之介がどちらを意味して書いたのかが、問題の核心であると言えます。

芥川が、悪の存在、悪の原因をただの文学的な遊びとして書いたのか、深刻に悪の原因、悪の存在に向き合っていたのかは知る由もありません。しかし私は、芥川龍之介にとって、「悪」というテーマに対する問題意識は相当深刻なものであったと思います。

閻魔大王が脅迫しても・・・

芥川の作品に「杜子春」という短編小説があります。貧しい杜子春に現れた仙人が黄金のありかを教え、貧しかった杜子春が金持ちになり、多くの人々が友達として近付いてきます。しかし、お金を使い果たすと人々は去りました。するとまた仙人が現れて、黄金のありかを教え、杜子春は豊かになりますが、お金がなくなるとまたみんな去って行きました。そこで、杜子春は黄金はいらないから、仙人になりたいと願います。仙人は、そのためには「何があっても声を出すな」と申し渡します。

様々な魔性が襲い掛かりますが、杜子春は声を出しません。しかし、「返事をしなければ命を取る」という神将に返事をしなかったので殺されてしまい、杜子春の魂は地獄に落ちます。そこでも耐えられない責め苦に遭いますが、それでも声を出しません。それを見た閻魔大王は杜子春の両親を連れてきて、滅茶苦茶に殴りつけます。耐えかねた杜子春は「お母さん」と一声叫びました。気が付いてみると、杜子春は元の世界に戻っていました。彼は、自分が仙人にはなれないことを告白し、人間らしい正直な生活を送ると仙人に告げました。黄金(富裕な生活)も仙人になることも諦めた杜子春は、唯一、家族愛の絆(親子、夫婦、兄弟の愛の関係)の前に屈したのです。「お母さん」という声を発したことを話の結びとした意味は、愛を否定する道はない、ということではないでしょうか。

愛の利己性と利他性

「悪魔」という短編の中に描かれているように、悪魔の持つ誘惑の本性は、純潔な乙女を我が物にしようとする利己愛の特徴を持っています。悪魔はそれが悪いことであると自覚していても、愛の誘惑という業の強さの前にどうすることもできない、そういう愛の歪みや逸脱を伴う利己愛に陥っています。

一方、「杜子春」に描かれた家族愛、親子愛は、たとえ地獄の中にあっても、利他愛の特徴を全く失うことがありませんでした。このことから芥川は愛には、利己愛と利他愛の相矛盾する側面があることを見抜き、鋭く観察し続けていたように思われます。

そして彼はただ観察していただけでなく、自身、深刻な悩みの中にいたようで、妻や子がある身でありながらも、自ら命を絶ち、人生と訣別しました。このような深刻な結論を導き出したのは、引き裂かれた愛の相克の中に、納得のいく答えを見出せなかったゆえではなかったかと思われます。推測の域を出ませんが、愛の矛盾性を解決するための答えを出せない苦悩が芥川の命を奪い取ったのだという気がしてなりません。 彼が「悪魔」を書いたのは1918年ですが、その年、内村鑑三が再臨運動を起こします。来るべき再臨のキリストによる愛の問題の解決を、芥川龍之介は切望していたのかもしれません。