芸術と家庭・・・文学編(27)local_offer芸術と家庭
長島光央
孤独に耐え芸術を追求
鋭い宗教的感性を持ったリルケ
オーストリアの詩人、作家であるライナー・マリア・リルケ(1875~1926)は、事物を見る観察眼と自己の内面を省察する力に優れ、鋭い宗教的感性を持った哲学的詩人です。
リルケの作品でよく知られているのは、小説では「神さまの話」(1900年)や「マルテの手記」(1910年)、詩集では「ドゥイノの悲歌」(1923年)、「形象詩集」(1902年)、「時祷詩集」(1905年)、「新詩集」(1907年)などです。
「神さまの話」は、リルケが1899年と1900年にロシアを旅行した際、かの地の素朴な信仰生活に深い感銘を受けたのをきっかけに書かれたものです。ロシアの大地と農民の生活がリルケに与えた影響は非常に大きく、人間と自然が一体となり、神へと融合する思想は、ロシア訪問で得た体験に基づくものであると言ってよいでしょう。
「マルテの手記」は、パリで孤独な生活を送るデンマーク出身の青年詩人マルテが、様々なことについて断片的な随想を書き連ねていく形式の長編小説です。主人公のマルテには実在のモデル(ノルウェーの詩人、シグビョルン・オプストフェルダー)がいますが、実際にはリルケ自身のパリ生活の回顧が「手記」の中に多く投影されていると見るべきでしょう。
「ドゥイノの悲歌」は、各々70行から100行程度の詩行をもつ10の連詩からなるエレジー(悲歌)で、リルケ晩年の代表作です。
1912年にリルケは、彼の庇護者であったマリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯爵夫人からアドリア海沿岸にあるドゥイノの館に招かれました。彼が客人として館に滞在している期間に、海沿いの陵壁を散歩していると、天啓のごとくに詩句が浮かびました。これが「ドゥイノの悲歌」誕生の瞬間です。彼は数日のうちに第三歌まで書き上げましたが、そこで一時中断し、その後は第一次世界大戦をはさんで断続的に書き継ぎ、1922年2月になってようやく完成させることができました。
「ドゥイノの悲歌」は人間存在の普遍的意味を問い、それを象徴的な語法で歌い上げた一種の思想詩です。前半部には十全な存在としての天使が登場し、その対比的な存在である人間の無力さや無常さ、現世社会の皮相さに対する嘆息が強調されています。しかし、後半部になると、人間の地上における生の営みが肯定され、有限性を持つ人間に対する希望が見出されます。この作品の根底には目に見えるものであれ、見えないものであれ、すべての事象は相互に関連し、統合しているというリルケの考えがあります。
ロダンから多くを学ぶ
リルケは、軍人であった父の意向で陸軍幼年学校や士官学校に送られましたが、生来、繊細かつ病弱であり、子供のころから詩作にふけるような性分であったため、父の願いとは別の方向へ進みます。
大学進学を目指したリルケはギムナジウムに入学し、全コース8年分を3年でやり遂げるという優秀な成績で卒業しています。その後、リルケはプラハ大学とミュンヘン大学で文学、美術、哲学などを学びながら、詩や散文を多数執筆しました。
リルケは彫刻界の巨匠であるロダンと親交を持ち、彼の深い精神世界や芸術観、孤独な生活などから多くを学びました。それはリルケの作風にも大きな変化をもたらします。そして、彼はパリ生活における自らの経験を土台としながら、新境地とも言える「新詩集」(1907年)を発表したのです。
リルケの詩は、時代ごとの変遷はあるものの、基本的には精神世界を扱い、スピリチュアルな響きを持つ言葉を用いるのが特徴です。そのことの故に魅了されるファンが多くいるのですが、その一方で難解に感じる人も少なくありません。そのような意味でも、リルケは研究価値の非常に高い詩人ではないかと思います。
リルケの結婚生活
1900年、リルケは親交のあった青年画家ハインリヒ・フォーゲラーに招かれ、北ドイツの僻村ヴォルプスヴェーデに滞在するようになります。彼はそこで女性彫刻家のクララ・ヴェストホフと出会い、1901年4月に結婚します。
その年の12月には一人娘であるルートが生まれますが、リルケが欧州各地を転々としたこともあり、家族が一緒に暮らすことはほとんどありませんでした。妻と娘をベルリンに残し、自らの創作活動に没頭したリルケは何を感じていたのでしょうか。私は妻に申し訳なさを感じていたのではないかと思っています。
孤独に耐えながらも芸術の高みに至ろうとしたリルケは、孤独に芸術を探求する魂を持ったロダンと似ています。しかし、あの世でリルケは愛を中心とする家庭生活をもっと重視すべきだったと悔いているかもしれません。