機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・文学編(28)

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長島光央

妹の結婚式のために…

太宰治と『走れメロス』の世界

太宰治

20世紀の日本を代表する小説家・太宰治(1909~1948、本名・津島修治)は、その生き方が彼の作品『人間失格』そのままの自己破滅的なものであったため、人間存在の矛盾性を考察する人々が深い関心を寄せる対象となっています。

しかし、その一方で太宰は『人間失格』とは対極とも言える、純粋で良心的な『走れメロス』という作品も生み出しています。邪悪なものと神聖なものが葛藤する内面世界を持つ太宰にとって、『走れメロス』は人間の善性を信じて描いた作品として、独自の輝きを放っています。

羊飼いのメロスは純朴で正義感の強い青年でした。彼は妹の結婚式に必要なものを購入するため、シラクスの町へ買い物に行きました。すると、昔は賑やかだったシラクスはとても寂しい様子で、人々の心も落ち込んでいたのです。メロスは町の人から、王様が人間不信に陥ったため人々を虐殺しているという話を聞き、激怒します。邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を殺害しようと決意した彼は、短剣を携えて城へ侵入しますが、すぐに捕まります。捕えられた彼は王に向かって「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」と言い放ちます。

死刑が確定したメロスは、妹のもとに帰って結婚式を挙げてやるために、3日後の日没まで猶予をくれと頼みます。そして、セリヌンティウスという親友を人質として王の前に差し出すことを提案しました。

人間不信の王は、メロスが親友を裏切って逃げるのもまた見ものだと思い、これを承諾します。メロスは一睡もせず走って家に戻り、妹の結婚式を挙げました。そして3日目の明け方、村を出発したメロスはシラクスへとひた走りに走りました。豪雨で増水した川の濁流を泳ぎ切り、襲ってきた山賊にも打ち勝ったメロスでしたが、ついに体力の限界を迎えて動けなくなってしまいます。

一度は諦めかけたメロスでしたが、それでも自分を信じて待っている親友のもとへ走り始めます。血を吐いてボロボロになりながらも、彼は日没直前、処刑台の前へと滑り込みます。セリヌンティウスは、一度だけメロスを疑ったことを告白し、メロスもまた一度だけ友を裏切りかけたことを告白します。2人は一度ずつ互いの頬を殴り、熱い抱擁を交わしました。

この美しい友情に触れた王はメロスを無罪にし、さらには「自分も仲間に入れてくれ」と懇願しました。このような美しい物語を太宰治は書き上げたのです。

『人間失格』という絶望の世界

一方、『人間失格』の主人公・大庭葉蔵は純粋であるがゆえに子供のころから人に馴染めず、「道化」となることでなんとか日々を過ごしていました。資産家の末息子でしたが、酒やタバコ、左翼運動、乱れた女性関係などで身を落とし、心中未遂事件まで起こしてしまいます。未亡人との同棲生活の後、内縁の妻を得て、ようやく自分も人間らしくなれるのではと思ったのも束の間、その妻が出入りしていた商人に襲われてしまいます。その一件以来、変わってしまった妻の姿を目の当たりにした葉蔵は心のバランスを崩してしまい、自殺を図ります。自殺は失敗に終わりましたが、体が弱くなっていたため喀血し、その際にモルヒネを処方されたことを機にモルヒネ中毒になってしまいます。精神科病院に入院させられるに至った彼は、ついに「もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました」と悟るのです。この物語は、あまりにも太宰自身の経歴と重なるところが多いので、大庭葉蔵は作者の分身だと見られています。

『人間失格』は、人間社会の中で、上手に生きることのできない主人公が破滅していく様を追う物語です。人間の弱さを「これでもか」というほどさらけ出す葉蔵の姿が、全編にわたって描き出されています。「恥の多い人生を送ってきました」という葉蔵の告白から始まるこの作品を通し、太宰は一体、何を読者に訴えたかったのでしょうか。

幸福な結婚と家庭に飢えていた太宰治

『人間失格』に対してはいろいろな見方があると思いますが、少なくとも、女性や酒に溺れる生活を送った弱い男の物語と簡単に片付けてしまうことはできないでしょう。太宰の自己省察は卓越したものであり、人間不信から「道化の人生」を演じることになった原因を、理性的かつ冷静に見つめることができていたと見るべきです。

そして、その太宰が『走れメロス』で人間を信じることの素晴らしさを描いたのです。メロスが親友を人質に立ててまで果たしたかったのは、たった一人の家族である妹の結婚式でした。ここに、本当の幸せを掴むことのできる結婚と家庭を夢見ていた彼の本音が表れているのではないでしょうか。幼少のころから様々な出来事を通して心の傷を負った太宰は、道化で自分を誤魔化して生きる術を身に着けてしまいました。しかし私は、本当の太宰治はメロスの中にいたのだと思うのです。