機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・文学編(29)

芸術と家庭・・・文学編(29)local_offer

長島光央

文化・芸術分野で繁栄した後裔

夏目漱石の『硝子戸の中』

夏目漱石

近代日本の大文豪と言えば、夏目漱石(1867~1916)がその一人として間違いなく挙げられるでしょう。『吾輩は猫である』、『草枕』、『坊ちゃん』など、数多くの傑作を世に出し、多くの日本人に親しまれてきた小説家です。小説に加え、随筆も書いた漱石ですが、亡くなる1年前の1915年には身辺の出来事を『硝子戸(がらすど)の中(うち)』に綴っています。

『硝子戸の中』は朝日新聞に連載された、晩年、床に臥せがちだった漱石が書いた最後の随筆です。部屋の硝子戸の中から世の中を見渡しながら、その視点から、思いがけない来客と語らい合った事柄や、頭に浮かんだ幼少の思い出の数々などを書き連ねています。

朴訥(ぼくとつ)に語られる日常茶飯の出来事が、自然と読者の心に沁み入ってきます。

人を信じ過ぎては馬鹿を見てしまい、と言って疑い過ぎては人と相容れないというような不器用さがありつつも、基本的には人のよい漱石ですので、人や社会との関わりを疎ましく思いながらも、社会と繋がってものを書く人生を硝子戸の中で送っているのです。「智に働けば角が立つ、情に棹(さお)させば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角(とかく)に人の世は住みにくい」という『草枕』冒頭の文章を思い出させるような硝子戸の中の日々です。「アイラブユー」を「月がきれいですね」としか訳せなかったという漱石の人付き合いの不器用さ、純朴さが、エピソードを通じて語られます。飾らない文章で淡々と綴られた随筆には、彼の人間性が素直に表現されており、ある意味では小説よりも面白いと言えるかもしれません。

漱石の晩年:病の中で死を直視する

漱石は、晩年に胃の病で入退院を繰り返し、自宅で静養する時間が多くなりましたが、『硝子戸の中』でもそのことを書いています。

彼は、はじめはどうにかこうにか生きていると言っていましたが、その言い方は適切ではないと思い直します。胃の病気が時々再発するので、これは胃の病気の継続状態だと考え、見舞ってくれる人々に「病気はまだ継続中です」と答えるようになりました。そして見舞客に「私はちょうどドイツが聯合軍と戦争(第一次世界大戦のこと、1914~1918)をしているように、病気と戦争をしているのです。今、こうやってあなたと対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹壕の中に這入って、病気と睨めっこをしているからです。私の身体は乱世です。いつどんな変が起こらないとも限りません」とユーモラスに語っています。

このような来訪者との語らいとは裏腹に、本人の胸中は深刻であったと思われます。「所詮、我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いていくのではなかろうか」と述べ、「私は私の病気が継続であるという事に気がついた時、欧州の戦争もおそらくいつの世からかの継続だろうと考えた。けれども、それがどこからどう始まって、どう曲折して行くかの問題になると、
全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえって羨ましく思って
いる」と、病気と戦争を同列に並べて「出来事の継続状態」を考察します。

夏目漱石の家族と一族の繁栄

夏目漱石(金之助)は、江戸の牛込馬場下にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として生まれました。漱石は、母の千枝が晩年に生んだ子であり、生まれるとすぐに古道具屋の家庭に里子に出されます。その後、また別の家の養子となり、そこでゴタゴタがあったため、8、9歳のころ再び実家に戻るようになったのです。漱石は何も知らなかったのですが、戻ってきた実家が何かとても心が落ち着くように感じ、好きだったと言います。

養父母だった夫婦を実の父母だと思い込み、実家の父母を祖父母だと思っていた漱石でしたが、下女が彼に本当のことをそっと耳打ちしたのです。「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父さんと御母さんなのですよ。そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ」と言われ、「誰にも言わないよ」と言ったきりでしたが、心の中では大変嬉しかったと書いています。

夏目漱石の妻は鏡子といい、夫婦には長男・純一、次男・伸六という二人の息子がいました。孫に房之介、松岡陽子マックレイン、半藤末利子がおり、兄の孫に夏目太郎(新田太郎)、さらに曽孫には哲郎、一人がいます。それぞれに、著述や芸術の分野で活躍しており、一族は繁栄していると言ってよいでしょう。夏目漱石・鏡子夫妻は、喜びを感じつつ、あの世から温かく見守っていることと思います。