芸術と家庭・・・文学編(30)local_offer芸術と家庭
長島光央
家庭では苦労した文豪
森鴎外の『山椒大夫』
明治を代表する二大文豪として知られる夏目漱石と森鴎外ですが、夏目漱石(1867~1916)はイギリスのロンドンへ、森鴎外(本名は森林太郎1862~1922)はドイツのベルリンに留学し、二人とも新しい文明の風に吹かれて日本の近代文学を開いた小説家です。
鴎外の作品に『山椒大夫』(1915年刊行)という有名な作品があります。平安時代末期の説教節(中世末から近世にかけて行われた語り物芸能の一つ)の演目である『さんせう太夫』をリメイクしたものです。
『山椒大夫』のあらすじは、12年前に筑紫(福岡)へ行ったきり帰ってこない父を探し訪ねて、14歳の姉「安寿(あんじゅ)」と12歳の弟「厨子王(ずしおう)」の二人を連れた母親が旅の途中で人買いに遭遇し、親子離ればなれとなって過酷な受難の中を生きる物語となっています。
父親の平正氏(たいらのまさうじ)は、岩代(福島)の判官を務めていましたが左遷され、筑紫に流されました。その父を探し出すため、母子は女中の姥竹(うばたけ)も連れた4人で岩代を出発します。その途中、越後(新潟)で人買いの山岡大夫にだまされ、安寿と厨子王は奴隷として丹後(京都)に、母は佐渡に売られてしまいました。女中は海に飛び込んで死んでしまいます。
安寿と厨子王は、それから丹後の長者「山椒大夫」のもとで奴隷として働きます。過酷な状況の中、安寿は弟だけでも逃がすことにし、別れ際に守り本尊を渡すと自身は入水して命を絶ちました。
逃げおおせた厨子王は、京都の清水寺で関白の藤原師実(ふじわらのもろざね)と出会います。師実は、厨子王の守り本尊を見て確かな家柄であると知り、自身の館に招きました。そこには、病気の養女がいましたが、守り本尊を拝むと立ちどころに回復。師実は厨子王のために、人をやって父・正氏の安否を確認させますが、すでに亡くなった後でした。
その後、元服した厨子王は、平正道と名乗り、丹後の地方役人に出世します。最初の仕事として、丹後での人身売買を禁止しました。それを受けた山椒大夫は、奴隷として扱ってきた人々を解放し、給料を払うようになります。すると以前にも増して家が富み栄えるようになったのです。
この部分は、中世の説教節では山椒大夫を処刑する話、つまり、復讐劇になっています。それを鴎外は、人身売買の禁止、奴隷解放という近代の人道的なストーリーを実施した役人の平正道(厨子王)として手を加え、変更しました。改心した山椒大夫が成功する様子は、かつて自分と姉を酷使した罪を、正道が許したとも考えられるでしょう。
正道は、姉が入水自殺したことも知り、尼寺を建立して死を悼みました。そして、休暇をとってお忍びで佐渡に向かいます。別れた母を探すためでした。
現地に行ってみると、ぼろぼろの服をまとった盲目の老女を目にします。その老女はある歌を口ずさんでいました。「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ」。
それを聞いた正道は、直ちに女のもとに駆け寄ると、うつ伏して持っていた守り本尊を額に押し当てました。すると老女の目が開け、「厨子王!」の叫びと共に母子がピッタリ抱き合うという物語、これが鴎外の『山椒大夫』の結末です。
理想を追求する知性的視点
森鴎外は明治の大文豪ですが、現在の東京大学医学部を卒業後に陸軍軍医となり、後にトップの軍医総監を約8年半務めた優秀な陸軍省の官僚という顔もあります。作家と軍医の二足のわらじで活躍した鴎外は、『山椒大夫』のほかにも、『舞姫』『高瀬舟』『寒山拾得』『阿部一族』『於母影(訳詞集)』『雁』など多くの傑作を残しています。
鴎外はよく「高踏派」の作家と言われます。善悪や美醜をありのままに書こうとする自然主義に対して、どちらかと言えば俗世間を超えて理想を追求するという立場、理知的視点から、心に余裕を持って対象を捉えて書く傾向があります。極悪人の山椒大夫を許すような物語の改編も、高踏派らしいと言えます。
森鴎外の結婚と家族
鴎外は、生涯で二度結婚します。最初の結婚は、海軍中将・赤松則良の長女「登志子」との結婚で、二人の間には長男の「於菟(おと)」が誕生しましたが、その結婚生活は1年半ほどで終わりました。原因は、気性が合わなかった、鴎外の母・峰子との関係が悪かったなどさまざまな説があります。二度目の結婚相手は、大審院判事・荒木博臣の長女「志げ」です。この再婚は、登志子と離婚してから12年後のことでした。志げとの間には、長女「茉莉(まり)」、次男「不律(ふりつ)」(1歳足らずで死亡)、次女「杏奴(あんぬ)」、三男「類(るい)」が生まれます。
於菟は医学者、茉莉はエッセイスト、杏奴、類も同様に随筆家と、父の遺伝子を受け継ぐような道を選んでいます。しかし、4人はお互いに葛藤が多く、緊密な家族愛で生きたとは言いがたい家族関係だったようです。父の大き過ぎる偉業と名声の前に、大きな重圧が加わっていたのでしょうか。明治の大文豪も、自分の家庭をよく治め、教育するのには苦労が多かったということでしょう。家庭を治め整える、すなわち、神の願いである斉家(せいか)は永遠のテーマです。
【参考資料】「山椒大夫・高瀬舟」:森鴎外 新潮文庫 2006年版、「評伝 森鴎外」:山崎國紀 大修館書店 2007年版、「よみがえる天才8 森鴎外」:海堂尊 ちくまプリマ―新書 2022年版