機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・絵画編(10)

芸術と家庭・・・絵画編(10)local_offer

岸田泰雅

家庭得られず逝った二人の聖人

聖母子と聖エリザベスと幼児の聖ヨハネ

17世紀のイタリアの画家、ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィ・ダ・サッソフェッラート(1609─1685)が描いた「聖母子と聖エリザベスと幼児の聖ヨハネ」という作品がある。

「聖母子と聖エリザベスと幼児の聖ヨハネ」

画面に向かって左の女性がマリア、彼女が膝に載せて抱いているのがイエス、幼いイエスの足裏に手を伸ばし、足裏をくすぐっているかのようなしぐさで、杖を持っているのが聖ヨハネ、そして手を合わせ、マリアを拝んでいるような姿で描かれているのがヨハネの母親である聖エリザベスということになる。要するに、マリアとその子イエス、エリザベスとその子ヨハネ、この2組の母子を一つの画幅の中に収め、意味深げに描いたのがサッソフェッラートの画である。

画を見る限り、イエスとヨハネはじゃれ合っているようであり、足裏をくすぐるヨハネのことを指さして、イエスは母マリアにヨハネのいたずらを訴えているかのようである。この幼児二人は、後年、救い主イエスと洗礼者ヨハネとしてイスラエルの群衆の前に姿を現す聖者である。この画のようなことが実際あったかどうかは定かでないが、おそらくサッソフェッラートの想像力が生んだ作品であると見てよい。

それにしても、なぜ二人の大聖者を一つの画面に入れ込む発想をサッソフェッラートは思いついたのか。

聖書を読むと分かるのであるが、エリザベスとマリアは「親類」である。詳しくは記されていないが、エリザベスとマリアは姉妹のような関係だったとも考えられる。ヨハネはイエスより少し先に生まれ、イエスがやや遅れて生まれている。それにしても、そのように近い関係にあるマリアとエリザベスが生んだ男の子がそれぞれ二大聖者に成長したという事実は興味深い。

マリアとエリザベスの悲しみ

マリアはイエスを生んだ立場から、聖母マリアと称されることになるが、キリスト教史の中で、聖母マリアが一般的な母親としての幸福感に包まれて暮らしたという話は一切ない。反対に「悲しみの聖母」というイメージで語られることが多いのである。

たとえば、「聖母マリアの七つの悲しみ」と言われる悲しみがあるが、それは、①シメオンの予言(イエスは反対を受けるという予言)、②エジプトへの逃避、③幼子イエスをエルサレム神殿で見失う、④十字架の道行きでのイエスとの出会い、⑤ゴルゴタの丘でのイエスの磔刑、⑥イエスがわき腹を槍で突かれ、十字架から降ろされる、⑦アリマタヤのヨセフによるイエスの埋葬、といった具合である。息子の受難を見なければならなかったマリアの心中が悲しみに覆われたことは、母親として当然のことであったと言う以外にない。

もう一方のエリザベスはどうか。長じて洗礼ヨハネと呼ばれるようになった息子の宗教活動(人々に悔い改めを促す)を見ていたエリザベスは、そのヨハネが王の婚姻(再婚)に口を出して、獄に繋(つな)がれ、最後には、首を斬られて命を絶つという壮絶な最期を遂げた出来事を知らされるや、言い知れない悲しみに襲われたであろうことは察するに余りある。

マリアとエリザベスが生んだ二人の大聖者は、悲しいかな、両人とも30歳あまりの「非業の死」で人生を閉じた。二人の母親の悲しみは言語に尽くしがたいものであったろう。

理想家庭を説くモデルの欠落

サッソフェッラートの画は、平和と静寂に包まれた中に、二人の母親はそれぞれ立派な賢い男児を儲(もう)けた満足感に溢れているようにも見える。しかし、マリアとエリザベスの表情はどこかに深い憂いが隠されているようにも見える。

マリアとイエスとヨセフ(養父)の家族、エリザベスとヨハネとザカリアの家族、この二つの家族は当然、親戚である。しかし、この二つの家族が蒙(こうむ)った目に見える受難は、それぞれの息子たちが受けた受難であり、非業の死であった。

イエスの死をキリスト教は神の予定として説いてきた。洗礼ヨハネの死は、ヘロデ王の再婚に対する異議を唱えたことから獄中に入れられ、首を刎ねられたことであるが、このことに対する明確な神学的解説は見られない。

二人の聖人を生み出した二つの重要な家庭は、それぞれの息子の結婚を見ることもなく、痛ましい人生の最期を遂げたことを考えると、イエスも洗礼ヨハネも理想的な平和の家庭を味わうことなく人生を終えたということになる。

この不条理を生きた聖人の教えがキリスト教の核心であるならば、キリスト教に理想家庭を説くモデルが欠落していることを一つの論理として認めなければならない。イエスもヨハネも理想の結婚そして理想の家庭を望んでいたと考えることは神への冒涜(ぼうとく)的行為であろうか。そうは思えないのである。