機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・絵画編(17)

芸術と家庭・・・絵画編(17)local_offer

岸田泰雅

芸術と家庭の両立

「祭りのよそおい」

祭りのよそおい

日本画壇に名を残す人物に、大阪の堺生まれの島成園(しませいえん)(1892~1970)という女性がいる。京都の上村松園、東京の池田蕉園、大阪の島成園、この3人の女流画家は「三都三園」などと呼ばれる。

島成園は「祭りのよそおい」という画題が付けられた作品を大正2(1913)年に発表している。この作品には4人の女の子が着物を着た姿で描かれている。大阪の商家では、夏祭りの時期になると、軒先に紋付の幔幕(まんまく)を下げる習慣があった。その幔幕の前に置かれた長椅子に3人の女の子が座っており、もう一人は一番右の端にぽつんと立ったまま、椅子に座っている3人の女の子を見つめている。

どうも気になるのが、女の子たちの履物と着物である。長椅子の3人は、白足袋に塗りの下駄を履き、肩上げした振袖から襦袢がのぞき、大きな髪飾りが華やかさを添えている。しかし、右端の一人は素足に草履を履き、丈の短い質素な着物を着ている。

3人の女の子の家は裕福であり、右端の女の子の家は貧しいことが、この画を通して分かる。右端の女の子は寂しげであり、うらやましそうに3人の女の子たちの履物をじっと見ている。一方、長椅子の3人は表情が明るく楽しそうである。おそらく、島成園はそのことを意識して描いたのであろう。子供たちの世界にも、貧富の差があり、幼い子供心に影を落としているのである。

上村松園や池田蕉園の作品が、江戸時代の美人画を継承して、伝統と品格に立った優美の世界を描いたのと対照的に、島成園は一人斬新な感覚と視点に立っている。江戸の伝統を離れ、一気に現代のリアリズムの息遣いを感じさせるところに、彼女はいる。

京都や東京は首都という政治機能を果たしてきた、あるいは、果たしている中心である。そういう場所は必然的に芸術家たちが集まって、芸術の中心にもなる宿命を持っているが、その一方で大阪は歴史的に商都であり、自由な空気があって、違う雰囲気を漂わせているところである。特に、島成園が育った堺は商人の街であった。そのような背景からも、彼女の気質と画風の独自性が生まれた要因を推測することができる。

島成園の生い立ちと生涯

島成園は、父・栄吉、母・千賀の長女として生まれた。父は襖などに絵を描く画工であった。堺女子高等小学校を卒業後、北野恒富、野田九浦に師事し、日本画の基礎を習得した。彼女は
15歳ごろから父や兄の仕事に興味を示し、見よう見まねで絵を独習する。いくつかの美術展覧会への出品を通して、その才能を高く評価され、弱冠20歳で中央画壇へのデビューを果たすことになった。各方面からの制作依頼も多く寄せられ、入門志望の若い女性たちも多数、彼女の家を訪れた。「祭りのよそおい」が文展で入選したのは、デビュー後、1年目の21歳の時であった。

島成園は、「女四人の会」を結成する(1916年)など、自由奔放な挑戦を試みたりもしているが、そういった挑戦は良くも悪くも、男性中心の画壇であった当時において、風当たりが強く、「美人画」の隆盛は社会の風紀を乱すという理由から辛辣な評価を受ける羽目になった。だが、彼女の才能に惚れ込む人々も多く、新聞の連載小説などで挿絵を描く仕事も舞い込み、雑誌の表紙絵、付録絵、カレンダーのイラストなど、多くの仕事を手掛けた。大衆からの彼女の人気は決して低くはなかった。

大正9(1920)年、島成園は銀行員の森本豊次郎と結婚した。結婚生活の影響か、作品に精力が欠けるのを本人も画壇も認めざるを得なかったが、転々と全国の勤務地を移動する夫に従う他ない彼女の事情からすれば、仕方がないことだったと言えるだろう。日本を離れ、上海まで勤務地にしたほどであったから、なおさらである。

夫の理解のもと戦後も活躍

終戦後の1946年、夫の退職とともに大阪に戻った島成園は、戦後初めての個展を1951年に開催、56年まで毎年開催した。60年には大阪女人社展に参加。以降、門弟の岡本成薫との二人展を69年まで毎年開催した。

戦後も活躍し、多くの師弟を育てることになったが、その一人、生田花朝が言う通り「大阪の女流画家で、直接なり間接なりに、島さんの影のかからない人はない」というほどの存在感を示した。1970年、島成園は夫より7年早く脳梗塞により他界した。彼女の78年間の人生は、芸術生活と、夫との家庭生活との両立であり、家族愛と芸術愛の融合であった。