芸術と家庭・・・絵画編(20)local_offer芸術と家庭
岸田泰雅
子を描いた作品、生涯手元に
印象派の画家、アルフレッド・シスレー
フランスの印象派の画家、アルフレッド・シスレー(1839~99)は、イギリス人の両親を持ち、パリで生まれた。父のウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で、ロンドンのセント・ポール聖堂の裏手にあるワトリング通りで基礎を築き、生涯の大半をパリで過ごした。母親フェリシア・セルはケント州出身の馬具製造人の娘であった。アルフレッドの家庭は裕福であり、彼は何不自由ない環境で育った。
シスレーの作品の中で人物を主題にした作品は、非常に珍しい。室内画も少なく、わずか3、4点しか残されていない。シスレーの作品は900点近くを数えるが、そのほとんどが風景画である。シスレーと言えば、誰でも彼の風景画を思い浮かべるのである。風景画の中には秀逸な作品が多い。「ポール・マルリの洪水」「サン・マルタン運河の眺め」など、水と周りの風景を取り込んだ作品などに多くの傑作が見られる。特に、水面の光の反射の描き方は見事と言うしかない。
1857年(18歳)、父親の商売の関係から、跡を継ぐためにイギリスに渡り、叔父の下で商売の勉強をしたのであるが、どうしても、絵画への興味から離れられず、4年後、パリに戻って画家を目指すことになる。英国で、ターナーやコンスタブルの絵画に触れ、感動したことが彼の進路への決定的な影響を与えたのである。
人物画をほとんど描かなかったシスレーが、なぜか二人の子供、息子のピエールと娘のジャンヌを描いている。この「レッスン」(1874年頃の作)と名付けられた作品は、シスレーが死ぬまで手元に置いて手放さなかったもので、非常に、愛していた作品であった。二人の子供への愛情が非常に深かったことを示している。
光の効果を色彩によって表現することを目指した「印象派」の画筆の特徴が、息子のピエールの服を見ると、よく現れている。
結婚を認めなかった父ウィリアム
シスレーは、20歳を過ぎたころからシャルル・グレールの画塾に入り、本格的に絵画の道を歩み始めた。グレールはアトリエでの授業料を取らず、30~40名の若者画家を教えており、人格的な人物であった。このグレールの画塾から、ピエール=オーギュスト・ルノワール、クロード・モネ、フレデリック・バジールなど、絵画史に残る巨匠たちを輩出しているのである。シスレーが若い日々、画業の修行に専念できたのは、ひとえに、父親からの多額の仕送りのお陰であった。
1866年(27歳)に、シスレーは、2点の絵画をパリのサロンで入選させている。そして、同じ年、花屋のウジェニー・レクーゼクと出会い、翌年、息子のピエールが生まれ、2年後に娘のジャンヌが生まれた。しかし、この関係を父親のウィリアムは認めず、シスレーへの仕送りをストップしてしまった。その後、普仏戦争によって財産を失ったシスレーは、頼る者もおらず、困窮生活が始まるのである。
それでも、1870年代に入ると、シスレーは画家として全盛期を迎え、その進歩は目覚ましく、数か月間で、前印象主義的な表現に達した。同時代の仲間たちが共同出資して作った「画家・彫刻家・版画家の共同出資会社」を組織して、自分たちの作品の独自の展覧会を企画し、写真家ナダールのスタジオで開催した。そこには、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ドガなどが参加して、印象派展覧会の勢いを示すに十分なものがあった。
夫を支え続けた妻のウジェニー
1880年代以降、パリから南東のロワン川沿いに制作の拠点を移したシスレーは、ノートルダム教会で連作に挑むなど、制作意欲は衰えていなかった。彼の作品は、晩年にあってもさらに進化を求め、気象状況の変化による光の表現などをより深く探求している。
シスレーは最後の旅行として、英国の南ウェールズを訪問し、この時、長く生活を共にしたウジェニーと婚姻届けを提出した。父が許さなかった結婚を、晩年に成し遂げたのである。晩年、シスレーの生活は、経済的に満たされることはなかったが、どういう状況にあっても、妻のウジェニーは支え続け、そのお陰で、シスレーは画筆を取り続けたのである。ルノワールと親交が深かったシスレー、ピサロが印象派の中の印象派画家として称えたシスレー、今、その画風を見ると、印象派のチャンピオンがシスレーであったと言ってよいだろう。
愛する妻ウジェニーが癌で先立った後、あとを追うようにしてシスレーも癌で逝去した。享年59は早かったが、側には、愛する息子と娘を描いた「レッスン」があった。