機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・絵画編(23)

芸術と家庭・・・絵画編(23)local_offer

岸田泰雅

庶民の家族像

『愉快な家族』

JanSteen

オランダのヤン・ステーン(1626~79)は、庶民の日々の生活を描いた画家として知られている。彼の作品の中に『愉快な家族』(1668年)があり、現在、アムステルダム国立美術館に所蔵されている。

『愉快な家族』は、その名のごとく愉快な雰囲気に満ち溢れている。描かれた11人の人物一人ひとりが、それぞれ自分のやりたいことをやりながら楽しんでいるといった風情である。

中央の母親とその隣の祖母は、一緒に歌を歌っているようだ。画面の右側には、テーブルの上に足を投げ出して楽器を吹いている子供の姿がある。もう一人の子供は、窓の外から部屋をのぞき込んで、左手に持ったパイプを吹いているが、右手にはラッパを持っている。その窓の外の子供に向かって、部屋の中の犬が吠えている。右端の暖炉の上には、白い紙が貼られているが、その紙には、「この父にして、この子あり」と記されている。一体、どういう意図をもって、こういう言葉を画布に書き込んだのか興味深いところだが、ヤン・ステーンはよくこういう教訓めいた言葉を絵画の中に書き込んでいる。

手前の女の子は幼い弟に何かを飲ませているが、ワインなのであろうか。祖父は酒の入ったグラスを持ち上げて、赤ら顔で、ご機嫌な様子である。暗がりの中で祖父と祖母の間に挟まって立っている父親らしき人物は笛を吹いているが、この人物こそ、ヤン・ステーン自身であると推測されている。

この雑然とした家族の愉快な群像は、まさに「庶民」の家族像であり、ヤン・ステーンが背負った庶民性そのものであると言ってよい。祖父母や父母がだらしないので、子供たちも大体似たようなものに育っていますよ、というメッセージが何となく伝わってくるのである。人物たちが思い思いに動いている不統一な賑やかさを「愉快」と解釈してほしいのかもしれないし、これを通して「庶民の家族の幸せ」を示唆したのかもしれない。

ヤン・ステーンの作品の特徴

ステーンの代表作の一つである『聖ニコラウスの祭り』のように、彼の描いた風俗画の多くは、「雑然」、「混乱」という言葉で表現していいほどの生き生きとした空気に満ちている。実際、散らかった場面を表すオランダの諺に「ステーンの一家」というフレーズがあるそうだ。しかし、ステーンは自身の作品で描いたようなお祭り騒ぎをしてほしいと勧めているわけではなく、警告の意味で描いたのではないかと思われる。

彼はしばしば自分の家族をモデルにしたり、作品の中に自身を登場させたりしている。また、古いオランダの格言や文学を背景とする作品が多いことも特徴の一つである。ステーンは風俗画以外に、歴史画、神話画、宗教画、静物画、肖像画なども手掛け、すべて合わせると約800もの作品を描いたが、その中で現在残っているものは350枚程である。彼の作品は多くの画家に影響を与えたが、意外にも弟子はあまりとらなかったようだ。

ヤン・ステーンが生まれ育った家庭は醸造を営み、かつ二世代にわたって宿屋も経営していた。『愉快な家族』の中に酒を愛する祖父の姿があったり、小さな子供にもワインらしきものを注ぐ女の子が描かれているが、それはそのような家業が背景にあるからだろう。

ステーンは同時代に生きたレンブラントと同様、ラテン・スクールに通った。ユトレヒトでニコラウス・クニュプファー(1603~1655)の下で絵画を学び、1648年、ハブリエル・メツーと共に、ライデンに聖ルカ組合を組織した。

ヤン・ステーンの家庭生活

ステーンは著名な風景画家ヤン・ファン・ホイエンの助手となった後、ハーグに移り、1649年、23歳で、ホイエンの娘マルグリットと結婚した。子宝に恵まれ、8人の子供をもうけた。

1656年(30歳)から1660年まではライデンの北のワルモントに住んでいたが、1660年からはハールレムに移り住み、その間多くの作品を描き上げた。マルグリットとの結婚生活は20年間続いたが、彼女は1669年に亡くなった。

1670年(44歳)に、生まれ故郷のライデンに戻り、以後はずっとそこに留まった。1673年4月には再婚し、翌年には聖ルカ組合の代表に就任している。1679年、ヤン・ステーンは故郷ライデンで50年余りの生涯を閉じた。