芸術と家庭・・・絵画編(26)local_offer芸術と家庭
岸田泰雅
家庭を持てなかったゴッホ
ゴッホのジャガイモを食べる人々
誰もが知る画家ゴッホ(1853~1890)は、19世紀の中葉にオランダの南部、ベルギーとの境界近くに生まれ、20世紀を待たずして、若干、37歳の若さをもって地上での人生を閉じた。彼が耐え切れない苦悩を背負い、銃で自らを撃ち、命を絶ったことは多くの人の知るところである。
ゴッホは生前、今日、名画として絶賛される多くの作品を描き、画商である弟のテオドルス(通称テオ)を通して買い手を見出そうとしたが、世間はほとんど興味を示さなかった。生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったとも言われている。しかし、死後、彼の作品は鰻登りに評価を高め、50億円、100億円などの高値で売買されるようになり、世界を驚愕させた。生前は巨匠ルノアールを超えることなど、考えも及ばなかったゴッホであったが、20世紀後半になると、評価額において、ゴッホの作品はルノアールの作品を超えたのである。ゴッホが巻き起こしたこのような旋風を目の当たりにした評論家たちは、どう説明したらよいのか言葉を失ったであろう。
ゴッホは、プロテスタントの牧師の家に生まれた。自らも牧師を目指し、神学を学んでいた時期もあった。しかし、聖職者になるという望みは実現せず、最後は画家への道を選んだ。
ゴッホの画家としての歩みは、オランダ時代とフランス時代以降に大きく分けることができ、それぞれの時代で画風が異なっている。オランダ時代の作品は概して暗く、フランス時代の作品は明るいのである。
オランダ時代の作品で有名なのが『ジャガイモを食べる人々』である(ゴッホ32歳の時の作品)。ゴッホは、パリ移住前の時期、農民、職工などを多くテーマとして取り上げている。それは、聖職を志していたゴッホの宗教観に基づく「我が手を汚して働く人々への尊敬」によるものであったと言われる。
農民画家として有名なミレーを尊敬していたゴッホは、特に農民の生活に関心を持ち、彼らに敬意を抱いていた。『ジャガイモを食べる人々』は、貧しい農家の家庭でテーブルの上に置かれたジャガイモをみんなで取って食べている様子を描いた絵である。よく見ると、一人ひとりの手がゴツゴツとしていて、土からジャガイモを掘り出した手であることを強調して示しているように思われる。ゴッホの書簡によると、「ジャガイモを食べる人々がその手で土を掘ったということが伝わるように努めた」とのことである。祖父母と父母と娘一人の5人家族のようであるが、家の様子はいかにも貧しい。部屋を飾り立てるようなものは一切ない。ゴッホの言うように、これが当時のニューネン村の農家の食事風景を描いたものだとすれば、19世紀末のオランダ農民の暮らしは決して豊かではなかったと言えるだろう。
画風の転換:暗鬱から高揚へ
オランダからフランスに移り、パリ、続いて南仏を拠点に活動するようになったゴッホの絵は、明朗さ、高揚感が強く表れるようになり、オランダ時代の暗鬱な画風が消えていく。ただし、彼の精神世界は絶えず哲学的・本質的な苦悩を抱えており、鬱と躁の交互作用が途絶えることはなかったと見てよいだろう。
彼は当時のフランス画壇の明るい色調に少なからぬ影響を受けたが、特に南フランスのアルル、サン=レミで過ごした時期は、異常な高揚感が襲い、この世のものとは思えない色調と筆触で作品を描いた。
そこには日本の浮世絵の影響があったと言われる。彼は歌川広重の浮世絵名所絵(名所江戸百景)などに触れて浮世絵を崇拝するようになり、自らも浮世絵に近づきたいと願望した。浮世絵の「自由で鮮やかな色彩表現」が、彼の心をとらえたのである。特にアルル時代(1888年~)以降の作品に世界的評価が高い作品が集中しているのは、浮世絵精神(自由で鮮やかな色彩表現)によって作品を完成させていったことと深い関係があると見ることができる。
家庭をつくれなかった悲しみ
ゴッホは夫を亡くした従姉のケー・フォス・ストリッケル(母の姉とヨハネス・ストリッケル牧師の娘)に結婚を迫ったが、両家の父母の反対に遭うとともに、ケーからも拒絶され、苦悩の底に突き落とされる。
ゴッホにとっての深い悲しみは、結婚して家庭をつくれなかったことであろう。家庭を営んでいた弟のテオを深く愛したゴッホであったが、自分のことを考えると、深く落ち込まざるを得なかった。愛を形作る場は家庭以外にはない。ゴッホの悲しみは結婚できない悲しみ、家庭を営むことができない悲しみであったということは否定できない。