機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・音楽編(7)

芸術と家庭・・・音楽編(7)local_offer

吉川鶴生

モーツァルトの作品と妻コンスタンツェ

モーツァルトの結婚

一般的にクラシックの代名詞のように有名なモーツァルトですが、モーツァルト(1756~1791)は1782年、26歳の時に結婚をして、家庭生活を送っています。6歳年下の妻、コンスタンツェ(1762~1842)との間に6人の子供をもうけました。コンスタンツェとの結婚生活9年間は短いものでしたが、その期間、6人もの子供をつくったわけですから、それほど丈夫とは言えなかったコンスタンツェの体には大きな負担がかかったことでしょう。

モーツァルトが35歳で亡くなった時、コンスタンツェは29歳。子供たちを残され、コンスタンツェは苦労したと考えるかもしれませんが、当時は幼児死亡率が一般的に高く、無事に育ったのは次男のカール・トーマスと四男のフランツ・クサーヴァー・ヴォルフガングの二人だけです。この二人は生涯独身であったので、残念ですが、モーツァルトの直系の子孫はいません。

コンスタンツェは、「魔弾の射手」で有名な作曲家ウェーバーの従姉にあたりますから、モーツァルトはウェーバー家と姻戚関係を結んだことになります。コンスタンツェはソプラノ歌手であり、モーツァルトはこの女性を心から愛したことでしょう。1840年に撮った写真の彼女の面長な顔の姿を見ると、確かに、ウェーバーの面影と重なります。

実像を掴みにくい妻のすがた

モーツァルトの妻コンスタンツェに関して、「悪女伝説」がまことしやかに伝わっていますが、それは本当のところ、信じるに足りず、と言ったところです。何しろ、確かな資料が残されていないので、判断のしようがありません。後世の人々の憶測がいろいろとあらぬ方向に暴走して、コンスタンツェを稀代の悪女にしてしまったようです。

どのような分野であれ、天才的な業績を残した偉人に関して、その周辺部分のことなど、よく伝説的な物語が語られるというパターンが生まれるのですが、妻のコンスタンツェを云々する前に、モーツァルト自身がそれ以上に伝説化されている部分が多く、「モーツァルトの不可解な死」などといったテーマは現在でも多くの人々を惹きつけています。偉大な人のことを必要以上に悪く貶めるという心理は、それによって、その評価を行った人を引き上げる働きを生み出すものです。なぜなら、「そんなことまで知っているのか」「そういう隠された真実があったのか」など、驚きをもって受け入れられることが多いからです。しかし、実際には、資料がない、証拠がないことをよいことにして、様々な推測から発生する様々な伝説が生まれてしまうということが多いのです。

モーツァルトの作品は燦然と輝く

モーツァルトがコンスタンツェと結婚し、6人の子供をもうけ、9年間の家庭生活を営んだということ、この動かし難い事実を理解したうえで、二人の真実がどんなものであったにせよ、二人の間で分かち合われた愛の生活は二人にしか分からない世界であるというのが適切な見方であると言えるでしょう。

結婚生活を始めた1782年(26歳)以降、モーツァルトの亡くなった1791年(35歳)まで、120~130曲を書いた作品の中には彼の傑作が多く含まれています。

25歳から35歳までの作曲活動は、一つの円熟期でもあったと見て差し支えありません。やはり、モーツァルトを評価する正当な基準は、彼の作品そのものに依拠する以外にありません。

モーツァルトの作品群は永遠に燦然たる輝きを放っています。短い生涯を惜しみたくもなりますが、彼の短い生涯はその2倍、3倍も生きたと同じ価値を有しているのです。1782年から83年にかけて、モーツァルトは「わたしのいとしいコンスタンツェのために」というソルフェージュ(読譜能力)と関連させて、「大ミサ曲」を作曲していますから、この宗教曲のソプラノ独唱部分をコンスタンツェに歌ってもらいたかったと見てよいでしょう。

モーツァルトの音楽が奏でる音色、すなわち、軽やかに、壮麗に、爽やかに、そして、時として、悲壮な響きの中で、七色に変化する虹のような光彩をもって、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはコンスタンツェとの家庭生活を送っていたと見れば、モーツァルトは家庭の中に愛と平和を見出していたと考えることも許されるでしょう。