機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・音楽編(12)

芸術と家庭・・・音楽編(12)local_offer

吉川鶴生

妻を愛し、愛されたモーツァルト

小林秀雄のモーツァルト観

Mozart

Wolfgang A.Mozart

戦後日本を代表する批評家、小林秀雄の評論『モオツァルト・無常という事』の中で、彼は次のように述べています。「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、『万葉』の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない」。

小林秀雄が言うように、モーツァルトの乾いた、「明るいかなしさ」は、モーツァルトの音楽の特質とも言えるでしょう。すなわち、明るい曲の中にも陰鬱な響きがあり、暗い曲の中にも明るさが感じられるという摩訶不思議な音楽がモーツァルトの作品には非常に多いということです。シャープな批評で知られる小林秀雄は、ずばりモーツァルト音楽の特質を看破したと言ってよいと思います。


コンスタンツェは悪妻であったのか

Constanze Mozart

コンスタンツェ悪妻説がありますが、果たして彼女は本当に悪妻であったのか。思い切り、コンスタンツェを擁護する立場に立って述べたいと思います。コンスタンツェは1762年生まれでモーツァルトよりも6歳年下です。1791年12月に彼が亡くなるまでの、9年余りの結婚生活でした。この9年の結婚生活の中で、4男2女の6人の子供を儲けます。成人したのはそのうち次男のカール・トーマス・モーツァルトと4男のフランツ・クサヴァー・モーツァルトの二人だけでした。

コンスタンツェは、ほぼ1年か2年おきに妊娠と出産が繰り返される、そんな生活を送りました。あまり体が丈夫ではなかったコンスタンツェにとって、体力的にはかなり負担がかかったと思われます。のちに病がちとなり、転地療法をたびたびすることになりますが、このことがモーツァルト家の家計を圧迫したことは想像するに難くありません。

モーツァルトが急死したのち、二人の子供を抱えたコンスタンツェは子供と自分を守るために、途轍(とてつ)もない強さを発揮します。コンスタンツェは、浪費癖で家計を傾けたという見方をする人々がいたり、モーツァルトの弟子と不倫をしたという推測があったりで、悪妻説が出たことは事実ですが、それがどこまで本当であるかは確認できません。しかし、私は夫を亡くし、幼い子供を抱えて、精一杯生きた女性であると素直に見てみたいのです。一人の人間として、自分を誤魔化さず、正直に生きていた、その正直さが200年経っても私たちに訴えかけてくる、コンスタンツェの魅力でもあるでしょう。モーツァルトは、天性の純粋さで、コンスタンツェを終生大事に思っていたことが、その手紙の文面からも推し量ることができます。

モーツァルトの死後、29歳のコンスタンツェは自分と幼い子供たちの生活を守るために立ち上がります。まず、「レクイエム」を弟子のジュウスマイヤーなどに依頼して完成させ、「レクイエム」の依頼主であるフランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵から残りの作曲料を受け取ります。そして神聖ローマ帝国皇帝レオポルド2世に働きかけ、翌年から1年間、亡き夫の収入の3分の1の遺族年金の支給を勝ち取ります。その後は夫の追悼や子供たちのためのチャリティーコンサートを企画し、残された楽譜を売却することによって、借金を完済します(浪費癖のあったモーツァルトには多額の借金が残されていた)。後年、利子を取って人にお金を貸すことができたほどです。このような女性を悪妻と言えるかどうか、冷静に考えてみるべきです。

「神に愛されしもの」

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト、その名にあるように、アマデウス(神に愛されるの意)なるモーツァルトは、神に愛されるだけでなく、妻コンスタンツェを愛し、コンスタンツェから愛される者でもありました。ヴォルフガング・アマデウスとコンスタンツェの夫婦愛が生み出した作品群が、1782年から1791年までの作品であると見てよいでしょう。モーツァルトの円熟期の作品です。

35歳の生涯は、確かに短いものでありましたが、その作品は、歴史上に燦然たる輝きを発しています。美しすぎて「かなしい」アレグロを書ける作曲家はモーツァルト以外にはない、と言った小林秀雄の論評を心に留めて、もう一度、モーツァルトを聴くならば、大いにうなずけるに違いありません。