芸術と家庭・・・音楽編(13)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
心の音を紡ぎ「不滅の恋人」へ捧ぐ
ベートーヴェンの家庭環境
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の家庭は、父親のヨハン・ベートーヴェンが宮廷楽団の歌手(テノール)であり、さらに祖父もそうでありましたので、音楽的な環境には恵まれていたと言えます。母親のマリア・マグダレーナは宮廷料理人の娘でした。従って、ベートーヴェンは父親の血統から音楽家としての才能を受け継いだと見てもよいでしょう。
しかし、愛情にあふれた家庭であったかどうかは、疑問符が付きます。というのは、父親が酒に溺れ、収入も不安定だったからです。その父親は息子の才能を当てにして、音楽のスパルタ教育をルートヴィッヒに施すのです。それで、ルートヴィッヒは、幼い頃、音楽自体がすっかり嫌になってしまった時期もありました。
その才能の高さは、8歳でケルンでの演奏会に出演したことでも分かりますが、11歳のときから、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに本格的に師事します。ネーフェは、ピアノ、オルガン、作曲を教えることのできる当時のドイツでは有名な音楽家でありました。このネーフェがルートヴィッヒの才能を見込んで、深い愛情を注ぎ込んでいくのです。
16歳の時に、ベートーヴェンは母親のマリアを失い(肺結核)、失職していた父の代わりに、父と幼い兄弟たちを支えるために奔走する日々が続きます。いくつもの仕事を掛け持って自身を酷使しました。22歳の時には、父ヨハンが他界します。父の死と前後して、ベートーヴェンは、ハイドンに弟子入りすることになり、ピアノの即興演奏の名手として、名声を博していきます。
難聴という致命的な病
ベートーヴェンは、20代後半から、難聴の症状がひどくなり、そのことが彼をひどく苦しめます。音楽家としては、聴覚喪失は致命的であり、彼は絶望的な気持ちに襲われるのです。28歳のころには、ますますひどくなって、最高度難聴者とされました。自殺も考えたベートーヴェンでしたが、苦悩を乗り越え、生きる意欲を取り戻して、音楽家としての道を再び歩み始めます。
「たとえ障がいがあっても、それを取り除かなければならない。この考えが絶対に確固たるものと見做されるに違いない」というベートーヴェンの言葉は、難聴という障がいを取り除くという考えを絶対的に確固たるものと思い定め、強い意志によって生きる彼の姿をはっきりと示しています。
全くと言っていいほど聞こえない無音の世界にいながら、彼は奇跡的な作曲家としての創作に没頭し、しかも歴史的な名曲の数々を生み出していきます。
聞こえないというハンディがどういうものか、経験した者でなければ分からないわけですが、音の遮断された世界にポツリと存在する自己を見つめる以外にない孤高とも言えるベートーヴェンの心象は、極度に内面化されたスピリチュアルな状態であったでしょう。耳では聞こえないが、天からの声だけはしっかりと心の中に聞こえるという「第三の耳」が与えられた状態です。彼は聞こえないことによって、神とともに音楽を作る新たな世界へと飛躍していったのでしょう。
生涯独身のベートーヴェン
ベートーヴェンの難聴問題などを考えると、実際に、結婚生活を送るということは、ハードルの高いことであったと言わざるを得ません。結婚する相手も、相当に覚悟が要ることでしょう。「不滅の恋人」あてに書かれたと言われる1812年(42歳)の手紙が、3通見つかっていますが、それが誰であるかは分かっていません。結婚、家庭という人生の中心テーマを考えたことのないベートーヴェンであったはずはありません。結婚はしたかったというのが本当の気持ちでしょう。「不滅の恋人」への手紙は、その何よりの証です。
音のない世界で、神とともに作曲するベートーヴェンは、その創作にすべてを投入し、現実の結婚を忘れようとしたのかもしれません。「不滅の恋人」に思いを寄せながら。音のない世界といいますが、音がなかったわけではない、音が聞こえないだけで、心の中には、無限の音が鳴り響く音楽の宝庫があったのです。人には聞こえない心の音を紡いで、名曲の数々を作り上げたベートーヴェンは「不滅の恋人」にそれらを捧げたことでしょう。