機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・音楽編(18)

芸術と家庭・・・音楽編(18)local_offer

吉川鶴生

明るい性格で妻を楽しませる

セビリアの理髪師

Rossini

ロッシーニ(1792―1868)と言えば、オペラがすぐに脳裏に浮かぶように、彼のオペラが、世界的に高い評価を得ていることは、よく知られているところです。

その中で、オペラの標本のように言われる「セビリアの理髪師」という名作喜劇があります。ステルビーニの台本にロッシーニが作曲した作品です。これは革命時代にフランスで書かれたボーマルシェの戯曲をオペラ化したもので、初演は1816年(ロッシーニ24歳)にローマで行われました。

スペインのセビリアを舞台に、後見人である強欲な医師ドン・バルトロによって家の中に閉じ込められている美女のロジーナと、彼女を熱愛するアルマヴィーヴァ伯爵が、理髪師のフィガロの知恵によって結ばれるまでの物語です。18世紀末から19世紀初めにかけての革命時代は、貴族社会が終わり、市民社会が台頭する時代の転換期ですが、その時代の息吹をよく伝える作品です。近年、ロッシーニに対する新たな評価が進む中で、よくできた明るい喜劇であると、多くのオペラファンから絶賛の声が絶えません。

ウィリアム・テル

ロッシーニのオペラには多くの傑作がありますが、「ラ・チェネレントラ(シンデレラ姫)」、「セミラーミデ」、「ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)」などはよく知られており、日本でも、「ウィリアム・テル序曲」は、多くの人々が耳にしたことのある曲です。特に、チェロのアンサンブルから、嵐を告げる激しい部分を経て、畳みかけてくるような最後の行進曲までの流れは、ロッシーニの偉大さを文句なく感じさせてくれます。

ロッシーニの書いた最後のオペラである「ウィリアム・テル」は、シラーの「ヴィルヘルム・テル」を原作としたフランス語のオペラで、正式な表記はフランス語の「ギヨーム・テル」となっています。ロマン派時代の先駆けとなる情緒あふれる歌、そして重厚なオーケストラは聴きごたえがあります。物語の舞台は、ハプスブルク家の圧政下にあるスイスの山岳地帯です。テルと村人たちがオーストリア人の代官ゲッペルの横暴に屈せず、激しい抵抗をする中で自由を勝ち取るまでの話ですが、その中に、村の長老メルクタールの息子アルノールとハプスブルク家の王女マティルデとの悲恋が絡められ、描かれています。

ロッシーニの結婚と家庭生活

ロッシーニは、18歳でオペラ「結婚手形」をヒットさせ、その後も次々にヒット作を世に出し、23歳でナポリのサン・カルロ劇場の音楽監督に就任しました。若い頃は、外見も性格も魅力的で、女性たちが彼の周りに群がりました。彼はサン・カルロ劇場のソプラノ歌手イザベラ・コルブランと出会います。イザベラのために、ロッシーニはたくさんのオペラを書き、二人の仲は深まっていきました。そして、ロッシーニ30歳、イザベラ37歳のときに二人は結婚します。結婚後もロッシーニはオペラのヒット曲を出し続け、躍進を遂げる一方、イザベラは歌手としてのピークに陰りが見え始め、プライドの高いイザベラは我儘になり、夫婦仲は冷めていきます。

1830年、ロッシーニは妻と両親をイタリアのボローニャに残し、単身、活動の場をパリに移します。しかし、イザベラと父親が大喧嘩の状態になり、「イザベラを殺すか自分が死ぬかだ!」というただならぬ手紙を父親から受け取り、ボローニャへ戻ります。

結局、二人は離婚し、ロッシーニは文豪バルザックの愛人オランプ・ペリシエと結婚します。オランプとの結婚生活は順調で、結婚後、ミラノに新居を構え、幸せな生活を送りました。晩年になると、毎週土曜日、「料理と音楽の夕べ」を開催し、そこに多くの貴族や芸術家たちが集まりました。料理と一流のピアニストや歌手の音楽を楽しむというライフスタイルはまさに彼の理想でした。

思うに、ロッシーニは開放的で明るいイタリア人的性格のお陰で、イザベラをコントロールできなかったこと以外は、それなりにうまくいったと言えるのでしょう。宗教曲の「スタバト・マーテル」を聴くと、ハイドンの「天地創造」以来の音楽と絶賛されたことが肯けます。基本的に、純粋で疑うことを知らず、宗教心も旺盛であったことが、ロッシーニの人生が明るい彩りに包まれているような印象を与える理由です。晩年になっても、妻オランプと貴人たちを料理と音楽で楽しませたことに脱帽せざるを得ません。