芸術と家庭・・・音楽編(25)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
夫婦愛に支えられた創造の輝き
誠実で晩成型の偉大な作曲家
セザール・フランク(1822~1890)は、19世紀にベルギーのリエージュで生まれた音楽家です。彼が誕生した当時、そこは「ネーデルラント連合王国」の一部でした。彼は風貌から見ても、血筋から考えても、正に「ドイツ系」ですが、音楽を研鑽し、活躍した舞台がフランスであり、また、実際に国籍もベルギーからフランスに移したのでフランス人として扱われています。
父親の熱心な勧めで音楽の道を志した彼は、作曲家として、さまざまなジャンルの作品を残しています。さらに、彼は教会のオルガニストでもあったため、宗教音楽家としての顔も持っています。彼の顔を見ると、非常に謹厳で実直、誠実な雰囲気が漂っています。
フランクは1834年にリエージュ王立音楽院を卒業し、翌年、一家でパリに移住します。1837年にはパリ音楽院に入学し、そこで作曲、ピアノ、オルガンなどを学びました。
その後、同音楽院を退学するなど、紆余曲折の道を辿りますが、1858年にサント・クロチルド聖堂のオルガニスト職に就任し、同職にはその後長きにわたってとどまりました。
1871年にはサン=サーンス、フォーレらとともにフランス国民音楽協会の設立に加わり、翌1872年にはパリ音楽院の教授に迎えられます。演奏家としても、国民音楽協会の会員としても、その名が広く知れ渡っていたフランクでしたが、パリ音楽院の教授となったことにより、さらに多くの弟子が生まれることとなります。中でもダンディ、ショーソン、ヴィエルヌ、デュパルクらは特に有名です。彼らは師弟間の尊敬と愛情によって固く結ばれ、皆、師であるフランクを「ペール・フランク Père Franck」すなわち「父フランク」と呼ぶようになりました。そして、1870年代から1880年代の後半にかけてのフランクは、旺盛なインスピレーションを得たかのように、次々と、傑作を書き上げていきます。
フランクの代表的作品
フランクが作曲した管弦楽作品の「交響曲ニ短調」は、フランスを代表する曲のひとつであり、19世紀後半における最も重要な交響曲のひとつとして高く評価されています。ドビュッシーはこの曲を「数え切れないほどの美しい部分をそなえている」と絶賛しました。 交響詩「ジン(鬼神)」は、ユーゴーの『東方詩集』の中の詩に着想を得て書かれました。フランクはユーゴーからたくさんのインスピレーションを受けています。
ピアノ曲では、「前奏曲、コラールとフーガロ短調」が、人気のある作品です。40年近くピアノ曲を作っていなかったフランクが久しぶりに作曲した本格的なピアノ独奏曲で、作曲の背景には国民音楽協会への出品作にピアノのための大曲が少ないという事情があったと言われています。
「ヴァイオリンソナタ イ長調」は、ヴァイオリンとピアノのためのソナタです。フランス系のヴァイオリンソナタの最高傑作とまで言われるこの曲は、同郷のヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイの結婚を祝うために作曲され、献呈された作品です。古今東西の著名な演奏家たちがレコーディングした名曲です。
歌曲「天使の糧(ラテン語: Panis angelicus)」はフランクが作曲した「3声のミサ曲 イ長調作品12」の一曲で、歌詞はトマス・アクィナスが聖体の祝日のために書いた讃美歌の一節を用いています。
オルガン曲の「3つのコラール」は、フランクが1890年に作曲したオルガン曲で、彼が完成させた最後の作品となりました。
フランクの結婚と家庭生活
フランクはピアノの教え子であったウジェニー=フェリシテ=カロリーヌ・セイヨ(1824~1918)と親密になり、彼女に求婚し続けます。そして、1847年に彼女の父親に結婚の意志を伝え、翌年、念願を成就させます。ウジェニーは94歳まで長生きし、夫とともに平和な人生を過ごしました。フランクが晩年まで創造力を発揮して、数々の名曲を残すことができたのは妻の支えがあったからこそと言えるでしょう。創造の輝きは夫婦の愛からもたらされるのです。