芸術と家庭・・・音楽編(26)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
国家に翻弄された結婚
欧米で活躍、そしてソ連へ帰還
セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)は、20世紀を代表するロシアの作曲家です。オペラ、交響曲、バレエ音楽、ピアノ協奏曲、ピアノソナタ、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲など、多くのジャンルで名曲を残し、その多彩な才能を示しました
現在のウクライナ東部、ドネツク州で生まれ、13歳で帝政ロシアのサンクトペテルブルク音楽院に入学し、作曲・ピアノを学びます。1917年のロシア革命以後はロシアを離れ、アメリカ、フランス、ドイツを渡り歩きながら作曲家、ピアニスト、指揮者として活躍しました。彼の軽妙洒脱で、澄んだ音色の踊るようなピアノは世界各国で愛されました。
欧米で活躍していたプロコフィエフでしたが、最後には祖国ロシア(ソビエト連邦)に戻ります。築いた自分の功績ゆえにスターリンのイデオロギー的プレッシャーから逃れられると考えていたプロコフィエフでしたが、現実は厳しく、ショスタコーヴィチと同様に、スターリンの全体主義的な抑圧と監視を避けることはできませんでした。そして、彼は奇しくもスターリンと同日の1953年3月5日(61歳)にモスクワで亡くなります。
息子に対する音楽教育の母の情熱
プロコフィエフは農業技術者の父と農奴の家系の出である母との間に生まれました。若い時から音楽教育を受けてきた母マリヤは音楽に強い情熱を持っていました。その母に音楽の手ほどきを受けた彼は、5歳にしてピアノ曲の作曲を試みます。9歳の時には最初のオペラ『巨人』を作りあげるなど、天才的な才能を発揮しました。
息子の進むべき道を模索していた母はサンクトペテルブルク音楽院の教授だったアレクサンドル・グラズノフに息子を紹介する機会を得ます。プロコフィエフはこの時、オペラ『無人島で』と『ペスト流行期の酒宴』を完成させ、4作目の『水の精』に取り組んでいるところでした。グラズノフは彼の才能を高く評価し、同音楽院の入学試験を受けるよう勧めました。1904年、プロコフィエフは試験に合格し、弱冠13歳で入学を果たします。
1910年には父が他界して財政的支援が滞りますが、作曲家、ピアニストとして名を馳せ始めていたことが幸いし、何とか生計を立てることができました。この時期、彼はサンクトペテルブルクの「現代音楽の夕べ」にも出演し、主催者や参加者に深い感銘を与えています。
その後、彼は音楽活動を活発化させていきますが、その要因の一つがロシア・バレエ団を創設したセルゲイ・ディアギレフとの出会いです。ディアギレフはプロコフィエフに、彼にとって初めてとなるバレエ音楽の作曲を依頼します。最初に委嘱されて作曲した『アラとロリー』こそ認められなかったものの、次作の『道化師』は紆余曲折を経て上演にこぎつけ、高い評価を得ました。
欧米を転々とした後、しばらくモスクワとパリを行ったり来たりする生活が続きましたが、1930年代の世界恐慌の影響で欧米でのバレエやオペラの上演機会が減少したため、彼は祖国に帰る決心を固めます。プロコフィエフは帰国してからも作曲に情熱を注ぎ、『キージェ中尉』、『ピーターと狼』、『ロメオとジュリエット』などの秀逸な作品を生み出しました。
プロコフィエフの結婚と家庭
プロコフィエフは二度の結婚を経験しています。最初の妻はカロリナ・コディナ(スペインの歌手)、二番目の妻はミーラ・メンデリソンです。カロリナは夫にソ連移住を思いとどまらせようとしましたが、彼はスターリン体制下で作曲を続けることを選びました。帰国後、プロコフィエフはミーラと出会い、深い関係となります。彼はミーラとの結婚を望み、裁判所にカロリナとの離婚を申請します。すると、そもそもプロコフィエフとカロリナの婚姻自体がソビエト当局に適切に登録されていないため無効だとされ、彼の望み通り、ミーラとの結婚が成立したのです。その後、カロリナは逮捕され、8年の刑期を務めることとなります。
こういった彼らの結婚にまつわる複雑な事情は、結局、共産主義体制が影響しているものです。彼らは共産主義体制に翻弄されたのだと言えるかもしれません。なお、カロリナとの間に生まれた二人の息子スヴャトスラフ(1924~2010)は建築家、オレグ(1928~1998)は画家となり、父の生涯と作品の普及に努めました。