芸術と家庭・・・音楽編(27)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
多忙で結婚生活には後悔も
指揮者と作曲家を兼ねた大音楽家
指揮者として名を馳せたグスタフ・マーラー(1860~1911)は、作曲家としても類まれな音楽的才能を発揮しました。特に彼が書き上げた交響曲1番から10番までは世界の至る所で頻繁に演奏されています。
マーラーの音楽の特徴は、西洋音楽の伝統に従うことにそれほど留意せず、意外な展開を見せるなど、自由自在に曲調を作り上げるところにあります。当時は理解されにくい音楽でしたが、現在では世界中に多くのファンがいることを考えると、作品の真価が後世になって認められたと言えるでしょう。
マーラーは強い文学的なスピリットを持っていたため、ドラマ性やストーリー性を持った交響曲を書き上げたのではないかと思われます。その意味ではむしろ交響詩に近いのかもしれません。彼の交響曲が歌付きで抒情性を帯びていることが多いのはそういう理由からでしょう。
マーラーを理解するためには、彼がユダヤ人として生まれ、過酷な人生を生き抜かなければならない運命を背負っていたという背景を知る必要があります。ユダヤ人は常に民族的な迫害、攻撃、偏見に晒され、安住の地を持たない悲しみを背負ってきましたが、彼もまた、そのような心情を抱えながら自らの人生を切り開かなければなりませんでした。反ユダヤの嵐が吹き荒れる欧州で、彼がカトリックに改宗した理由も望む職を得るためでした。
マーラーが生きた時代は、日本で言えば明治時代と重なりますが、世界的に見ると激動の時代だったと言えます。1800年代末期、彼が育ったオーストリアのウィーンなどではデカダンス(フランス語で「退廃」を意味する文芸上の一傾向)が全盛で、世の中には病的、退廃的な光景が広がっていました。そのような中、子どもの頃から「殉教者」のイメージを強く抱いていたマーラーは、苦悩の探究者として自分を見つめるようになったと言います。しかし彼は深い孤独感と病的な神経症状に悩まされながらも指揮者としての道を開き、さらに作曲をも手掛けるようになるのです。
マーラーの交響曲の特徴
マーラーの交響曲の大きな特徴としては、その多彩な音色が挙げられます。例えば、交響曲第1番の第3楽章では葬送行進曲の旋律が様々な楽器によるカノン(同じメロディが異なるタイミングで複数のパートに現れる)で展開されます。また交響曲第2番から第5番では、1つの長いフレーズの中で数小節おきに楽器が変わる場面があります。
さらに従来の交響曲では用いられなかった楽器の使用も大きな特徴です。交響曲第3番の第3楽章では舞台裏でのポストホルン(郵便ラッパ)のソロが、のどかで且つ神秘的な雰囲気を作り出し、交響曲第7番ではギターやマンドリンがエキゾチックな効果を生み出しています。また交響曲第6番ではカウベルや低音の鐘、ハンマーなど、およそ楽器とは呼べないものまで用いています。
マーラーの交響曲の響きを豊かにしているのは音色だけではありません。彼の交響曲では、様々な性格の旋律が唐突に並べられることによって、劇的な効果をもたらします。例えば交響曲第1番第1楽章の序奏部分では、多様な要素が次から次へと現れ、入れ替わっていきます。同じく第1番の第3楽章では重苦しいカノンや陽気な旋律、ゆったりとした民謡風のモティーフの対比が見事に一つの楽章を形成しています。
マーラーは交響曲第3番を「多様な内容を持った世界」であると述べ、「交響曲はすべてを包み込む世界でなければならない」という言葉を残しています。このような「世界」を作り出す彼の音楽観が、多様な変化や豊かな色彩を持った傑作を生み出したのだと言えるでしょう。
マーラーの結婚と家庭
1901年、マーラーが41歳の時、18歳年下のアルマ・マリア・シントラーと出会い、翌年の3月に二人は結婚します。アルマの知性と美貌に魅せられた彼が積極的に近づいた末の結婚でした。二人の間には、長女のアンナと次女のユスティーネが生まれますが、長女は5歳で病死し、次女は彫刻家になってアメリカで暮らします。作曲家と指揮者の二股生活は多忙を極め、湖畔に小屋を作って作曲に専念した彼にとって、アルマと寄り添う時間が少なかったことが不満足な結婚生活を招く結果となりました。マーラーの後悔は大きかったことでしょう。