芸術と家庭・・・音楽編(28)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
音楽の美を生涯の伴侶に
アルカンジェロ・コレッリ
1600年ごろからJ.S.バッハが亡くなった1750年までを、クラシックではバロック音楽の時代と呼んでいます。「バロック」という言葉は、諸説あるもののポルトガル語で「いびつな真珠(barocco)」に由来するそうです。一時代前のルネサンス音楽の特徴である「調和と美」に対して、ドラマティックで感情を表現するような躍動感のある音楽がつくられるようになりました。当時の社会背景は、国王が大きな支配権力を持つ絶対主義の時代でした。音楽も王や裕福な貴族によって支えられ、その権力をたたえる機能を果たしていきます。
バロック音楽の時代の大きな動きとしては、オペラが誕生したことと、本格的な楽器が作られるようになって器楽曲が増えたことです。楽器の発達により、独奏と管弦楽による「協奏曲」が書かれるようになりました。その中でも、数人のソロ奏者とオーケストラ全体が対比するように協演する「合奏協奏曲」が多数生み出されていきます。
バロック時代の作曲家の中で「合奏協奏曲」の形式を確立したといってもよい人物に、アルカンジェロ・コレッリがいます。コレッリは1653年2月にイタリアで生まれました。10代になると、当時の器楽音楽最大の拠点であったボローニャで本格的にバイオリンを学び、19歳ごろにフランスのパリで成功して、その名が知られるようになりました。
コレッリの作品は、当時の作曲家と比べて必ずしも多くはありません。トリオ・ソナタ48曲、バイオリン・ソナタ12曲、合奏協奏曲12曲が有名で、残りは数曲です。自身が納得のゆく作品だけを世に出し、多くの作品は破棄したという話もあります。
多くの作曲家に影響を与える
コレッリは、合奏協奏曲とトリオ・ソナタを高いレベルで完成させ、後輩のヴィヴァルディやヘンデル、バッハなどの作曲家たちに大きな影響を与えました。
トリオ・ソナタの形式は、コレッリ以降、ヨーロッパで広く演奏されるようになり、特にヴィヴァルディの『調和の霊感』作品3は大ヒットして、コレッリの作品5に次ぐベストセラーとなりました。『調和の霊感』は、全12曲からなる協奏曲集で、コレッリの合奏協奏曲に似た作品がいくつかあります。中でも第7番はコレッリの作品6の協奏曲と非常によく似ています。また、バッハもコレッリの作品3の主題に基づいて、オルガンのためのフーガ・ロ単調・BWV579を作曲しました。
コレッリの代表作としてよく知られているのは、「ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集 作品5」の第12番目「ラ・フォリア」です。「フォリア」とは、「狂気」や「正気でない」という意味を持っています。「ラ・フォリア」はもともと、15世紀末のポルトガル、もしくはスペインを起源にする舞曲だったものです。最初はその意味の通り激しい音楽でしたが、17世紀になると性格が変わり、ゆったりとした憂いを帯びる曲調になっていきました。
コレッリはこの曲を変奏曲として仕上げました。最初は穏やかに進行し、変奏が重なると、次第に情熱的な激しさを見せます。「ラ・フォリア」自体は、他の作曲家にも作曲されていますが、コレッリの作品はその美しさと情熱性から多くの人に愛され、非常に有名になりました。
この曲は、今でもさまざまな解釈で演奏されています。例えば、バイオリニストの高松亜衣さんの演奏は憂いを帯びた音調が感じられます。それとは対照的に、ドイツを中心に活躍している平崎真弓さんの演奏は、「ラ・フォリア」の意味の通り、狂気のような激しさが前面に押し出されて興味深く迫力ある演奏になっています。
コレッリの家庭的背景
コレッリの家系についてはあまり多く知られていません。法律家、数学者、詩人など優秀な人材を輩出する家系であったようですが、一族で音楽家になった人はいなかったようです。父親は、コレッリが生まれる数週間前に亡くなったため、コレッリは母の実家で兄弟とともに育てられました。
コレッリは生涯独身を通しました。そして、1713年1月8日にローマで亡くなり、マルス広場にある神殿パンテオンに埋葬されました。音楽に身をささげ、音楽の中に感じられる美を生涯の友、生涯の伴侶のように抱き、愛しながら生きたのでしょう。59年の生涯でした。
【参考図書】・『バロック音楽』 皆川達夫著 講談社学術文庫 2006年 ・『バロック音楽名曲鑑賞事典』 磯山雅著 講談社学術文書 2007年 ・『バロック音楽を読み解く252のキーワード』 シルヴィ・ブイスー著 小穴晶子訳 音楽之友社