世界史の中の結婚と家庭の物語(1)local_offer世界史の中の結婚と家庭の物語
藤森和也
英国隆盛の基礎を築いた女性
宗教改革の嵐の中で
世界史はさまざまな出来事や事件を記述します。歴史物語はとても面白い内容が多く、歴史好きの人々の興味と好奇心を掻き立てます。考えてみれば、どんな事件や出来事があったとしても、それらは人間が引き起こすものなので、すべて彼らの背後には父母があり、また結婚や家庭生活があったという疑い得ない事実を思い起こすべきでしょう。本連載では、世界史の中の結婚と家庭のさまざまな物語を見ていきたいと思います。第1回は、女王エリザベス1世(1533~1603)です。
エリザベスは、イングランドとアイルランドの女王ですが、即位したのが1558年、25歳の時です。父はヘンリー8世(1491~1547)、母はアン・ブーリン(1501~1536)。歴史物語の中で大いに取り扱われてきた二人でもあります。
エリザベスが2歳の時、母は処刑されました。その理由は、男子誕生を望んだヘンリー8世が、女児(エリザベス)を生んだということで、アンに憎しみを募らせて処刑したという、なんとも痛ましい話です。母を知らないエリザベスは、各国の言葉に流暢な利発な王女に育ちます。英語、フランス語、イタリア語、ギリシア語、ラテン語を使いこなしていたと言われています。過酷な権力闘争を見て育ったエリザベスは、処世術をおのずと身に着け、宮廷で生き抜くには、目立たないこと、息をひそめて学問だけを友として暮らすこと、としていたようです。
異母姉のメアリー1世(在位1553~1558)に続き、王位を継承したエリザベスですが、16世紀はヨーロッパに宗教改革の嵐が吹き荒れていた時代でした。その中をエリザベスも生き抜くことになります。メアリー1世は、母キャサリン(スペイン女性)によって敬虔なカトリックとして育てられていました。即位後はプロテスタントに対する残酷な迫害を行い、ブラッディー・メアリーとも言われました。
結婚問題が絡んだ宗教の分立
そもそも、英国がどうしてカトリックの信仰圏から離れるようになったかと言えば、ヘンリー8世の結婚問題にありました。ヘンリー8世は兄の死後、その妻であったスペインのアラゴン王家出身のキャサリンを妃に迎えます。ところが嫡子に恵まれず、彼女と離婚して宮廷の若い侍女アン・ブーリンとの結婚を望みました。しかし、キャサリンとの結婚の解消は教皇の承認を得られませんでした。結婚問題の解決を求めた王は、ケンブリッジ大学教授トマス・クランマーの示唆により、キャサリンとの結婚を無効とし、クランマーをカンタベリー大司教にして、アンとの結婚の合法性を認めさせたのです。これに対しローマ教皇が破門をもって応えると、1534年、国王至上法(首長法)を発布して、国王を唯一最高の首長とし、ローマから分離した「イギリス国教会(聖公会、アングリカン・チャーチ)」を成立させました。何とヘンリー8世の結婚問題を契機として、ローマと決別した英国に、プロテスタントが急速に広まっていったのです。
ヘンリー8世の死後、エドワード6世の時代には、祈祷書や信仰基準が定められてイギリス国教会のプロテスタント化が進みます。しかし、メアリー1世が王位に就くと、それらの改革は廃され、カトリックに復する動きが強行されました。
私はイギリスと結婚したのです
エリザベスはメアリー1世の治世で、プロテスタントの反乱を計画したと疑われ、1年近く投獄されるという辛酸を味わいました。メアリー1世が崩御し、王位を継承したその日(11月17日)、彼女は言います。「これは神の御業です。私には奇跡のようにしか見えません」。
エリザベスの宗教改革は、叡智に溢れていました。「無理強いしても、信仰は変えられない」そう考えて、カトリックとプロテスタントに偏らない中道の宗教改革を目指します。そして、外交や内政問題、経済立て直しに手腕を発揮しました。地方巡幸にも熱心で、民の手を取り、人々の心を掴んだのです。
その女王に議会が嘆願したのは、結婚でしたが、エリザベスは「私はイギリスと結婚したのです」と答え、夫は英国そのものであるという信条を吐露しました。結婚にまつわる修羅場を数多く見てきた彼女の信念だったのかもしれません。エリザベス1世は、スペイン艦隊を破り、華やかな文化を興し、黄金時代と呼ばれる治世を築きます。ヘンリー8世とエリザベス女王の父娘は、16世紀以降の英国の隆盛の基礎を作り上げたのです。
【参考資料】『図説エリザベス一世』石井美樹子著(河出書房新社)/『エリザベス一世』青木道彦著(講談社現代新書)/『ヘンリー八世: 暴君か、カリスマか』陶山昇平著(晶文社)