日本人のこころ〈24〉local_offer日本人のこころ
ジャーナリスト 高嶋 久
福岡――神功皇后の「三韓征伐」日本と朝鮮の古代史
八幡神・応神天皇を産む
古事記神話でヤマトタケルの物語の次に登場するのが、第14代仲哀天皇の神功(じんぐう)皇后です。第15代応神天皇の母で、いわゆる「三韓征伐」でも知られています。神から朝鮮半島の制圧を命じられたのに、それを無視して亡くなった仲哀天皇に代わり、子供を宿したままで朝鮮へ出兵し、帰国後、応神天皇を出産したことから、武芸の神にして聖母と崇拝されてきました。
応神天皇が八幡様と同一視されることから、全国の多くの八幡神社で応神天皇と神功皇后が一緒に祀られています。また、朝鮮への出兵にかかわった住吉三神、宗像三女神と一緒に祀られることも多く、いずれも海の神、航海の神で、福岡市や大阪市の住吉大社、宗像市の宗像大社に祀られています。
物語の概要は次のようなものです。
大和朝廷が九州南部の豪族・熊襲(くまそ)を討伐しようとした際、神功皇后が占うと、「西方に金銀の豊かな国があるので、そこを服属させて与えよう」との神託がありました。ところが仲哀天皇はそれを信じないで、熊襲との戦争を始め、急死してしまいます。
神功皇后が遺体を「もがりの宮」に納めて、もう一度占うと、「皇后の腹の御子が国を治めるべき」という神託がありました。皇后が神託を下した神に名前を聞くと、「神託はアマテラス大神の意思、伝えるよう命じられたのは住吉三神である」と答えました。
その後、神功皇后は住吉三神とともに朝鮮に出兵し、新羅を平定します。新羅王は王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を献上しました。これを見た高句麗と百済も大和朝廷への朝貢を約束しました。
皇后は戦のさ中に出産するわけにはいかないので、石を腰につけて出産を遅らせるように祈ったところ、筑紫国に帰国してから出産することができました。生まれたのが応神天皇です。
神功皇后は九州に帰国後、8本の幟(のぼり)を立てたことから、「八つの幡」つまり、八幡信仰が始まったという伝承があります。8には「たくさん」という意味があり、たくさんの幡が翻っている様子のことです。この幡は、神が降りてくる依り代でもあります。
八幡神は、後に源氏が石清水(いわしみず)幡宮で氏神にしたことから、鎌倉幕府を経て武家の守り神として全国に広がります。全国に約8万社あると
される神社のうち、八幡神社は最多の約4万社です。
近畿に帰る途中で、応神天皇を亡きものにしようとした異母兄の忍熊皇子(おしくまのみこと)香坂皇子(かごさかのみこ)を破って大和に凱旋し、神功皇后は幼い応神天皇の摂政として政治を執り行いました。
「倭国大乱」を収めた卑弥呼
古代の日本が朝鮮半島に出兵していたことは、高句麗の全盛期である4世紀末の国王広開土王(好太王)を記念して、鴨緑江中流の北岸の丸都城付近に建てられた石碑「広開土王碑」の碑文に、広開土王は391年と399年の二度にわたり南下し、倭と百済の連合軍と戦ったと記されていることからも事実だとされています。
高麗時代の1145年に国王の命で作られた、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までの、朝鮮半島に現存する最古の歴史書『三国史記』にも、「倭人の兵が来た」という記述が多くあるので、日本からの出兵があったのは確認されます。
戦前の日本史では、これらの記録をもとに大和政権が4世紀末に朝鮮半島南部に進出し、任那(みまな)などを支配していたということが定説になっていました。任那日本府という大和王権の出先機関があったことは『日本書紀』に書かれています。日本の朝鮮支配の根拠にされたことから、戦後は韓国との政治的な問題として扱われるようになり、日本の支配がどの程度及んでいたのか、政治的支配か、単なる交易の拠点かなど論争の的になっています。当時の日本はまだ鉄が生産できなかったので、鉄の産地である朝鮮半島南部から輸入していたことは事実です。
『古事記』『日本書紀』で、第2代綏靖(すいぜい)天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇は、系譜はあるが事績が欠落していることから、「欠史八代」と呼ばれています。ほぼ2世紀から4世紀くらいまでで、日本には文書の記録が現存していません。
2世紀に書かれた中国の『後漢書』には、当時の倭国は大いに乱れていたとの記述があります。いわゆる「倭国大乱」です。それによると、国々は男子を王として争っていたので、神の声を聞ける女子を王とすることで収まったそうです。その女王が、鬼道(シャーマニズム)によって占いをする卑弥呼のことで、その神のお告げを受け、卑弥呼の弟が統治するという仕組みが出来上がっていきます。これが、日本の政治システムにおける聖俗の分離、権威と権力の並立で、天皇制度の源流になったとされます。
豪族が抗争していた北九州で最初に生まれ、後に近畿にも及んでいったのでしょう。卑弥呼は「ひめみこ」のことで、1人ではなく複数のシャーマン的な女性がいたと推測されています。その役割が、後に男性の天皇に引き継がれていったのでしょう。