日本人のこころ〈93〉local_offer日本人のこころ
ジャーナリスト 高嶋 久
近松門左衛門 『曽根崎心中』
庶民を主人公にした「世話物」
元禄の三大作家と呼ばれるのが松尾芭蕉と井原西鶴、そして近松門左衛門です。近松は江戸時代初期に上方(大坂)で活躍した人形浄瑠璃(文楽)の脚本家です。近松が登場する前の人形浄瑠璃は、英雄伝説や歴史的な出来事を題材にした作品がほとんど。主人公は武士で「時代物」と呼ばれていましたが、近松は大坂を舞台に、初めて庶民を主役に登場させ、町人社会の義理・人情・恋愛などの葛藤を主題に「世話物」と呼ばれるジャンルを作り人気を博したのです。
しかも、物語は実際に起きた事件を題材にした、庶民にとって身近な話題だったので、今までにない共感を呼ぶようになります。つまり、江戸時代における「現代演劇」を生み出したのです。英雄話や教訓話ではない、庶民の生活に基づく文学として、日本の演劇史においても重要な出来事でした。
北前船などの航路が発達した江戸時代の大坂は、米をはじめ全国の食料や産物が集まり、「天下の台所」と呼ばれるようになります。さらに、各藩からの米を担保にした先物取引が生まれ、経済活動が活発になり、庶民の生活を潤すようになりました。生活が満たされてくると文化的需要が増えるのは自然な傾向で、出版や演劇などの文化活動が盛んになります。
近松門左衛門は1653年、越前国(福井県)の武士、杉森信義の次男として生まれ、本名は杉森信盛(のぶもり)。1664年に浪人となった父信義は越前から京都に移り住み、近松も公家に仕えるようになります。この時に、身に付けた教養が後に浄瑠璃を書くにあたって生かされていくのです。
やがて近松は、当時京都で評判の浄瑠璃語り宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで浄瑠璃を書くようになります。浄瑠璃とは、三味線の伴奏と共に太夫が独特の語りで劇中人物のセリフや仕草、演技を描写する「語り物」で、大衆的な叙事詩と言えます。個々の太夫の口演は「〇〇節」と呼ばれるようになり、現在は義太夫節として8流派が伝わっています。
1703年に上演された『曽根崎心中』は近松の代表作として人気を集め、心中が多発するなどの社会現象にもなりました。その後も『冥途の飛脚』や『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』といった大ヒット作を生み出しました。近松の脚本は、現在でも映画や舞台に用いられています。
『曽根崎心中』
『曽根崎心中』のあらすじを紹介しましょう。
当時、大坂ではやっていた「大坂三十三所観音廻り」を終えたお初は、以前からの恋仲だった醤油屋の手代・徳兵衛と再会する。しばらく音沙汰が無いのを責めるお初に、会えない間に大変な目にあったことを徳兵衛は語った。
叔父の家で丁稚奉公をしていた徳兵衛は、誠実に働いて信頼され、叔父の娘と結婚して店を持たせる話が出ていた。徳兵衛はお初がいるからと断ったが、叔父は勝手に話を進め、徳兵衛の継母に結納金を渡してしまう。なおも結婚を固辞する徳兵衛に、ついに叔父は怒りだし、勘当を言い渡した。さらに、大坂から出て行け、付け払いで買った服の代金を7日以内に返せという。徳兵衛はやっとのことで継母から結納金を取り返すが、それを叔父に返済する前に、どうしても金が要るという友人の九平次に3日限りの約束でその金を貸してしまった。
そこまで徳兵衛が語ったところに問題の九平次が現れ、お初は喧嘩に巻き込まれるのを恐れた客によって表に連れ出される。
徳兵衛は九平次に返済を迫るが、九平次は「借金などは知らぬ」と、逆に徳兵衛を詐欺師呼ばわりし、散々に殴りつけ、面目を失わせた。結納金を横領していないことを証明するには、死んで身の潔白を示す以外に道はないと覚悟を決めた徳兵衛は、日が暮れてから密かにお初を訪ねる。
人に見つかってはいけないからと、お初が徳兵衛を縁の下に隠したところに九平次が客として来て、騙し取った金の話をしたり顔でお初に語った。怒りに身を震わせつつ、縁の下から出てきた徳兵衛は、お初に死ぬ覚悟を伝える。
真夜中になり、お初と徳兵衛は手を取り合って曽根崎の露天神の森へ行く。森に着いた二人は、互いを二つの幹が合わさった「連理の松」の木に縛りつけ、覚悟を確かめ合う。徳兵衛は愛するお初の命をわが手で奪うことに躊躇するが、お初に励まされ、ついに短刀でお初を刺し、返す刃で自らも命を絶った。
こうして、現世では結ばれない二人が、来世で結ばれることを誓って心中し、「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と評判になった。
曽根崎心中の題材となった事件の現場は、現在の大阪市北区曽根崎にある露天神社(つゆのてんじんじゃ)の森で、同社は「お初天神」と呼ばれ、二人の慰霊の銅像が建てられています。
『曽根崎心中』が上演されると、物語の影響で心中事件が連続したため、数回で禁止となり、再演されたのは実に252年後の1955年のことでした。