機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・文学編(12)

芸術と家庭・・・文学編(12)local_offer

長島光央

子供たちへ綴った父の気持ち

小さき者へ

白樺派の小説家、有島武郎(1878~1923)の作品のなかに『小さき者へ』と題する代表作があります。有島武郎と言えば、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『惜しみなく愛は奪ふ』などの作品で知られる人物ですが、そんな中で、小品ながら『小さき者へ』という作品は、父母と子供の間に生まれる情愛と葛藤を描いた非常に味のある印象的な作品です。

小さき者とは、有島武郎と妻の安子(1888~1916)との間に生まれた3人の子供のことです。この子たちに書き記した父の気持ち或いは遺言のようなものが、一気に書き上げられた作品であり、脳裏を走る様々な思いが切々と綴られています。

妻の安子が結婚したのは、22歳のときで、武郎が32歳でした。長男、次男を出産し、そして三男を出産したのち、妻の安子は健康を害し、肺結核を発病しました。寒い北海道を離れ、療養のため上京しました。安子は鎌倉に転地し、平塚の病院で療養します。武郎は鉄道を乗り継いで湘南に出かけ、妻を見舞って慰めと励ましを与える日々でした。

1916年8月2日、安子は武郎に長い遺書を残して亡くなりました(享年27)。遺書には夫の武郎が作家として大成するようにという願いが綴られていました。安子の遺言によって、子供たちは母の死の床には立ち会わせないことにしました(結核という病の故)。このような状況のもとで、愛する妻の死後1年にして、父親として子供たちにその気持ちを綴ったのが『小さき者へ』です。

有島武郎の理想主義が生んだ罪の葛藤

有島武郎は、札幌農学校時代にクリスチャンとなり、渡米して、ハーバード大学などで学んだ後、帰国して、英語教師などを務めます。

その後、作家への道を志しますが、安子との結婚、3人の子供の誕生を通して父親たる自覚を持つ中で、様々な葛藤を覚えます。結婚して子供をもうけ父親になったことが果たして自分の人生であるのか、それとも他に自分の社会的使命があったのではないかなど、苦悩しながらの結婚生活を送ります。

これは、有島がキリスト教の救いに疑問を持ち、霊肉の葛藤が解決されない自己の状態を直視して、キリスト教から離れていったことと関係していると見てよいでしょう。折しも、社会主義たけなわの大正デモクラシーの時代、有島は白樺派の理想主義と社会主義を重ねるようにして、社会主義にも傾倒するのです。

しかし、色濃くキリスト教の影響を引きずる有島武郎は、罪深い自分が結婚生活などしてよかったのか、3人の子供までもうけたが、それは本当に良かったのかなど、自責の念に苛(さいな)まれ続けていたと思われます。ここに、有島のキリスト教的理想主義があります。そういう状況の中で書かれたのが、『小さき者へ』であり、キリスト教をバックにして考察しなければ理解できないような言葉が確かに見られるのです。「肉慾の結果を、天からの賜物のように思わねばならぬのか」といった見方は、罪びとである自分は罪の子を産むという遺伝的原則から離れることができないのではないかという深い苦悩を、有島に与えているのです。

妻の死によって子供の幸せを切望する父

どういう状態で子供たちは生まれてきたか、その出産の大変さを語り、新しい生命に対する母親の喜び、父親の感動などを述べながら、父親を超えていけ、と3人の子供たちの人生への励ましを与える言葉が続きます。妻の死の1年後に書いた『小さき者へ』の最後の部分に、偽りなき本心からの言葉として、有島武郎が子供たちに記したのが次の言葉です。

「小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。しかし恐れてはならぬ。恐れないものの前に道は開ける。行け。勇んで。小さき者よ。」

理想を求めながら理想を実現できないという限界を、キリスト教の中に見て取った有島武郎の結婚と家庭生活は、自己の罪を解決できない限り、結婚も家庭生活も一種の不条理を含んでいるとする有島自身が抱える矛盾のゆえに、破滅的な要素を持っていました。

安子との結婚生活はわずか7年です。その間、3人の立派な男の子を授かったことは天の祝福であると素直に受け取れば、それでよいと思われますが、理想主義の有島武郎は、死ぬまで、孤独な葛藤を続けて、作品を書き続けます。

しかし、『惜しみなく愛は奪ふ』という作品名と同じ運命を、有島自身が歩んで、愛人と情死を遂げる末路は真の愛ではなく偽りの愛による結末でした。それでも、3人の子供たちに「父と母との祝福」として語った言葉は、真実であったと考えるべきでしょう。